ここまでを要約すると
 延享縁起に入る前に、冒頭の寛文縁起からここまでの経緯について要約する。おおむね次のようになる。
権兵衛の家系は熊野修験系の山伏
 1人の熊野修験系の山伏がいた。彼は木曽御嶽山や信濃の山々で峰入り修行をし、地方の武士団や里の人を壇那(山伏とっての顧客)として祈祷やお祓いで生活をしていだ。壇那の中には望月氏のような武将もいた。
 そして、彼は信濃国祢津出身の巫女と結婚した。夫婦はたがいに助け合って、祈祷やまじない、護符配りなどの活動をしていた。
 しかし、武田信玄の信濃攻略で信濃が戦場と化すと、有力な壇那を戦争で失ってしまい、夫婦は熊野修験系の仲間の山伏を求めて甲斐に移った。しかし、一安心も束の間、武田氏が亡び織田氏の追求が厳しくなった。甲斐の地も乱れた。
 そこで、熊野権現の駿河における聖地であった竜爪山に入って修行し、壇那を駿河で持つことに決めて駿河に移った。その時期は権兵衛の誕生直前であろう。駿河に入っても2人の生活はこれまでととくに変わらなかった。ただ、新しい地に移って檀那の数も乏しく生活は苦しくなった。竜爪山に定住してからは家族も増えた。そして次々に分家していった。
権兵衛に竜爪権現が乗り移る
 そして権兵衛が生まれた。権兵衛は生まれつき母に似て、神がかり状態になることがあった。
 成長するにつれて彼も山伏となった。神がかりは祈祷や神降ろしに必要不可欠なものであったから、少しずつ彼の能力を認めて、病気平癒の祈祷や悪病退散のお祓いをする信者たちも増えてきた。しかし、貧乏は相変わらずだった。
 ちょうどその頃、江戸幕府は山伏の定住政策を打ち出した。また、吉田神道が神職の統制を強化しはじめた。このために権兵衛一族の内部にも動揺が生じた。
 このような時期に権兵衛が竜爪権現を感得したのである。このころの権兵衛は貧困のために一家を支える労苦からノイローゼ状態になっていたという。それが引き金となって神がかりになり、恍惚の中をさまよっていた権兵衛に竜爪権現が乗り移った。
 権兵衛や彼を支持する一派は、竜爪権現の託宣にしたがい、竜爪山に竜爪権現を祀ることにした。山伏から転じて社人となって生きることにしたのである。
 しかし、一方では権兵衛に乗り移った竜爪権現を信奉することを拒否し反発する滝藤兵衛のように、富士村山修験に加わり、従来どおり山伏として生き延びることを主張する一派も現れた。権兵衛たちを革新派とすれば彼らは保守派とも呼べよう。
 この対立は地元の村々の支持もあって権兵衛派が勝利をおさめた。
寛文縁起と系図を作る
 そして竜爪権現の縁起と一族の系図を作ることにした。竜爪権現の由来やその社人の権兵衛がどのような氏素性を持っているかを明らかにするのが目的だった。山伏の権兵衛の過去などはもちろん誰も知らなかった。
 縁起の作者は、権兵衛と同じ山伏だった熊野の種蒔き権兵衛の話を取り入れて縁起の前半部を作った。
 後半部は竜爪権現が徳川家康と強いつながりがあり、かつ江戸幕府に忠実であることを明らかにするため、竜爪権現が大阪夏の陣では徳川家康に味方した神であると記した。
 これを利用して、この権現の御利益は家康によって保証れていることを縁起に盛り込んだ。竜爪権現を信じさせるためには、実に有効な宣伝になる。
 次に系図も作られた。
 まず、権兵衛は山伏から社人に転身して竜爪権現の社人たちの鼻祖となったわけだが、父方の家系の中に権兵衛を位置づける必要があった。
 系図の作者は権兵衛一族の家の伝承に、権兵衛の祖先たちが望月氏のような信濃で有力な武将を壇那としていたこと、武田氏が支配する信濃や甲斐の山中で、山伏の修行していたことを材料にして、権兵衛一族を武将望月氏の末裔とした。そのため権兵衛の祖先を信濃の望月城に居城させることもした。
 さらに望月氏の武将としての家系を由緒あらしめるために、清和源氏の流れを汲む名家とした。そして、祖先たちに武将らしい名を与えた。それだけでは足りず、武田信玄の部下として数々の合戦で大働きをしたことも付け加えたり、武田姓を名乗らせたりした。
 人は貴種に弱い。権兵衛が武田の武将の落人といえば、社人に転身した権兵衛の口から出る竜爪権現の託宣も疑うことなく信じるだろう、と作者は考えたのである。
 そのさい、作者は各地の地誌や伝説を参考にし、権兵衛の祖先が熊野権現系の山伏だったことから、熊野権現や修験道に関係の深い土地を組み入れることも忘れなかった。権兵衛の父方が修験道の伝統の長い木曽御嶽山で神官を勤める竹居氏から出ていることも、暗に系図の中で触れておいた。
 系図の中でも、竜爪権現と同じくこの神に仕える社人としての権兵衛一族が先祖代々、徳川家康と古くかつ強固な主従関係にあったことを力説するのを忘れなかった。徳川家の先祖の新田義貞に忠勤を尽くした注書きも入れた。また、家康の先祖と似た事績を系図に記載した。
 権兵衛の母方は巫女だったが、父方が木曽御嶽山の神官竹居氏の流れであることに合わせるため、母方の家も同じ御嶽山の一方の神官滝氏から出たことにした。
 ここで作者は竜爪権現の縁起を約50年引き上げて、慶長年間の物語とした。それに合わせて神がかりした権兵衛も、実在の権兵衛よりも50年ほど引き上げられた。このような操作を必要としたのはほかでもない、徳川家康と権兵衛の生存年代を一致させる必要があったからである。こうしなければ、大阪夏の陣に竜爪権現は参戦できないから、家康のために手柄も立てられなくなる。駿府城に家康が入城したとき、自分が家康の旗神であると宣言することもできなくなる。
 何よりも、家康に忠誠を尽くして、そして家康に保証された竜爪権現の御利益が大切だった。
 これで縁起と系図の作成は完了した。
 以上が延享縁起までのあらましの経緯である。