第三章 延享縁起と穂積神社
第1節 江戸幕府の神道政策と山伏対策ならびに吉田神道
厳しい山伏規制と神道政策
 延享録起について考える前に、江戸幕府の神道政策と山伏対策、それに吉田神道について見ておく必要がある。というのも、寛文縁起も延享縁起も、吉田神道の厳しい神職統制に権兵衛一族が対応するために作られたと考えられるからである。
 寛文縁起は熊野修験系の山伏であった権兵衛一族が、幕府の政策によって山伏から社人に転換することを余儀なくされて作成された神話である。樽系図もその寛文縁起にともなって編まれた権兵衛一族の年代記である。
 そして藤兵衛との対立を克服し、ともかくも社人に変身した権兵衛一族は権兵衛が感得した竜爪権現を竜爪山上に祀ることになった。
 しかし、その竜爪権現が再び吉田神道によって神格の変更を求められた結果、作成されたのが延享緑起なのである。
 権兵衛一族は寛文から延享のおよそ80年の間に、二度にわたり吉田神道という巨大な怪物の前に膝を屈した。
 また、その吉田家が神道界に威勢を振るうことができたのも、背後に江戸幕府の神道政策と山伏対策とがあったからだった。これらの幕府の政策も、また寛文縁起と延享縁起に大きな影響を与えた。
江戸幕府の山伏政策
 まず、江戸幕府の山伏対策について見ることにする。
 徳川家康は豊臣家を滅ぼし日本の支配者となったのち、矢継ぎ早に各種の法度を制定した。政治的には武家諸法度や禁中並公家諸法度が挙げられるが、仏教界に対しても家康が生存中から次々と各宗ごとの法度を制定し、寺院規制を開始した。すなわち、慶長7年の浄土宗に始まり、その後、天台宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗などである。
 これら寺院法度制定の目的は、寺院を宗教の枠の中に押さえ込み、政治へ口出しすることを固く禁じることだった。畿内の大寺院が豊臣方と結んで、反徳川勢力化することを恐れたからである。
 平安時代から延暦寺や三井寺などの僧兵が、数を頼んで朝廷に強訴したり、時の政治権力に反抗することは珍しくなかった。幕府は寺院にこれを許さず、厳しい態度で望むことにしたのである。
 浄士真宗の本願寺は石山合戦を織田信長と互角に戦った。各地に一向一揆が生起し、戦国時代をいっそう混乱させた。家康自身も今川義元の死によって人質の身分から解放されたが、岡崎に帰城して間もなく、家臣らを巻き込んだ一向一揆に悩まされた苦い経験がある。
 家康は本願寺という大名を凌ぐ強大な勢力を殺ぐために、これを東西両本願寺に分割したといわれている。
 山伏を対象とした山伏法度が発令されたのは慶長18年(1613)、そしてこれに関連する御触書の公布は寛文2年(1662)である。このころから幕府は山伏対策に本腰を入れ始めた。幕府は山伏が持つ危険を察知していた。山伏の持つ全国自在の機動力を恐れた。
 昔から山伏は変装するには格好の姿なのだ。源義経は兄頼朝の追求を逃れるため、山伏に姿を変え、弁慶以下の従者たちと奥州に逃れた。彼らの逃亡には熊野や吉野、東北の羽黒山などの山伏の協力があったといわれる。
 古くは壬申の乱のさい、大海人皇子は再起を図るため、潜伏していた吉野から美濃に入った。このときの皇子も山伏姿だった。南北朝の争乱では、護良親王はやはり山伏に変装して熊野に入っている。
 このような政治犯や浪人、犯罪者などが山伏姿で諸国を徘徊し、各地の同類と連絡を取り合うことを放置していては、いつ幕府転覆の企てに結びつかないとも限らない。その当時、全国には幕府に不満を持つ浪人が充満していた。大阪夏の陣では、その浪人たちに家康率いる東軍は苦戦を強いられている。
 また、山伏は戦国時代にはスパイとしても利用された。前に記したように、武田信玄は山伏を活用する代償として山伏の普請役を免除したし、今川義元は富士村山修験を優遇した。しかし、山伏には逆スパイの危険もあった。
 家康はこのことも熟知していた。だから、彼は諜報に山伏を使わなかった。かわりに甲賀や伊賀の忍者を用いたのだった。
山伏を定住させる
 信玄や義元と違い、山伏を危険視した家康は彼らの定住政策を取り始める。家康死後の江戸幕府もその政策を踏襲した。
 幕府はまず山伏法度を公布し、これまで比較的自由だった山伏の宗教活動を規制し始めた。
 たとえば、山伏法度には次のような規定がある。



祭礼法事は軽くせよ
民家を借り、仏壇や看板を出してはならない
法衣装束は結構なものにしてはならない
仏や役行者などの絵像を掛けて、人々の祈念の求めに応じてもよいが、祈念が終わったらすぐ片付けよ

 ここにある規定の数々は、これまで山伏が自由に山から里に下り、里人に施していた祈祷や祭礼に法の網をかぶせようとするものである。
 ついで幕府は寛文2年の御触書で、山伏の居住の自由を奪ってしまった。
 山伏にとって定住とは山伏生命を奪われることを意味する。山伏が峯入りし、危険を冒して激しい修行を行い、山の霊気を体現していると人々が信じるからこそ、山伏の験力はその威力を発揮する。それが山から下りて人々に混じって生活し、大根や味噌の貸し借りをしたり、毎日の挨拶を交わすようになっては、山伏の生活も自分たちと似たりよったりだと見破られる。
 異界性は消滅し、それまで人々が山伏に抱いていた恐怖心とないまぜになった信頼は失われてしまう。親しみと恐怖とは両立しないものである。山伏が超能力という験力を発揮できるのも、里の人々が山伏が自分たちと異質のものであると認識していることが前提である。
 幕府の山伏規制は強化の一途をたどる。山伏の定住政策を決定した後、幕府は全国の山伏を管理させるために、山伏勢力の頂点にあった京都聖護院の本山派と、同じく京都醍醐寺三宝院の当山派の両派に全国の山伏の掌握を命じる。山伏は必ず2つの派のどちらかに属することとし、山伏の人別帳も作られるようになる。
 本山派と当山派との大まかな違いは、山林での修行のさい熊野から入って吉野に至るか、その逆に吉野から熊野に至るかという修行コースにあるが、そのような差異はこのさい問題にする必要はない。
 要するに、幕府は両派に山伏管理の義務を負わせ、あわせて両派間の長年にわたる対立を利用し、両者の抗争にそのエネルギーを向けさせることで山伏勢力の弱体化を狙ったのだった。
 さらに山伏に追い打ちをかけるように、幕府は寛文6年(1666)、「諸社祢宜神主法度」を制定した。この法度こそ吉田神道に強大な力を与え、もって吉田神道をして日本の神道界に君臨せしめ、その代償に江戸幕府の神道政策を忠実に代弁させたのである。
神道界に威勢を振るった吉田神道とは
カネトモ
ウラベ
 吉田神道は応仁の乱のころ、吉田兼 倶が唱えた神道である。吉田家はもとト部家といい、古代からト占や学問の家筋だった。
ナカトミノハライ
 兼倶は自家に伝わる家学を基礎とし、これに仏教、陰陽道、道教など取り入れ、日本書紀神代巻の講義や「中 臣 祓」の注釈を行い、吉田家の神道を確立した。この時代には律令制下の神祇伯白川神道もあった。しかし、吉田神道はこれを凌駕し日本最大の神道家となった。
 その教説は「先代旧事本紀」「日本書紀」「古事記」の三部の書を基本聖典とし、とくにそれぞれの神代巻に吉田神道の精髄が余すところなく示されていると主張する。
 兼倶の神道は唯一神道と称された。その名称に、兼倶の神道界をおのれの神道で統一しようという野心と自負がこめられている。
クニトコタチノミコト
 そして、この三部の古典に登場する神の中から、国 常 立 命が絶対原初の神として選択され、兼倶が京都吉田山に建設した巨大な八角形の大元宮に勧請された。大元宮を中央に置き、その周囲には八神殿、延喜式内社三千余社を配置した。
 この大元宮にあろうことか、伊勢神宮の神霊であるアマテラス大神が飛び移ったと彼は主張したのである。時の天皇にこれを密勅さえもした。彼は大元宮を伊勢神宮よりも強大な神の国とすべく、政治的に画策したのである。
 彼はみずからの家系の神祇界における正統性を世に宣伝するため、古代から神祇を司っていた中臣氏の系図をト部氏の中に取り込んだ。このようななりふり構わぬ手段を取って、吉田神道は神道界の頂点に立った。
 兼倶は「三教の一滴も嘗めず」と、吉田神道が仏教や道教などの影響をまったく受けていないとし、その独自性を強調した。しかし、実際には真言密教や陰陽道の教義を取り入れて自家の神道を構成していた。
 彼が基礎を築いた吉田家の神道は、室町時代には戦国大名の庇護を得た。戦国武将が戦争の勝利を神仏に祈り、呪術によって勝利の予言を得ていたことは、ノノーのところで見たとおりである。
カネミ
 江戸時代には吉田家は権謀術数に長けた吉田兼見が江戸幕府に接近し、幕府の強力な支持を得た。兼見はそれ以前にも織田信長や豊臣秀吉に取り入っていた。そして吉田家は「神道長上」「神祇管領長上」を僭称する。
 幕府は吉田家を利用して神道界を統制しようとし、その吉田家は幕府から「諸社祢宜神主法度」を与えられて、幕府の神道政策の手先となった。
 仏教界に対しては、幕府は各宗派に触頭を置かせて、法令その他の通達事項の徹底を図った。同じように、神道界では吉田家が定める神社が触頭となり、幕府の指令が全国の神社にくまなく行き渡るようになる。
 加えて諸社祢宜神主法度は、官位のない社人は必ず白張のみを着用するものとし、狩衣や烏帽子などの着用には吉田家の許し状、いわゆる神道裁許状を要すると規定した。後にはこの規定に違反し、裁許状の交付を受けずに装束を着用した場合の取り締まりも強化された。
 白張とは白布の表裏に糊を強くひいて仕立てただけの狩衣で、貴族の従者や下人の装束である。
狩衣∧原色日本服装史∨から転載
狩衣
 一方、神官の着る狩衣は貴族が着用するものである。京都三条室町あたりの呉服商から購入する。
 狩衣は堅地に文様を綾目に現した冬用と、紗地に糸を寄せて文様を出した夏用がある。なおその文様には立涌や松菱、群千鳥など豪華な模様が織り出され、刺繍もある。
 宗教には荘厳が必要である。社人が下僕の着する白張で神に祝詞を捧げたり、笏を構えても威厳は伴わない。やはり社人が烏帽子に狩衣を着用し、手に笏を持ち、足には黒い浅沓を履き、神に仕える重々しい姿を人々に誇示するからこそ神の威光も保たれる。白張で神事を行えということは、社人を廃業せよというに等しい。
 幕府の評定所の扱いも狩衣か白張かで扱いが異なっていた。狩衣資格者は評定所の縁の上に着座できたが、白張は縁には上がれなかった。当然、幕府の裁決も狩衣に有利なものとなる。
 そればかりではない。吉田家は社人たちに平安時代の氏である源氏や藤原氏などを名乗らせ、加えて和泉守、摂津守といった受領名や隼人正、宮内少輔、宮内助などの諸官職名を与えた。世上ではこれを吉田官といった(なお、古今萬記録などを書いた平山滝氏の長門正のことだが、「長門正」という官名はない。したがって「長門正」の名は、正確には「長門守」とあるべきである。それを「長門正」としたのは、周防と長門を支配していた毛利藩の長門守に遠慮したのではなかろうか。なおこれは東大史料編纂所の橋本先生にご教示をいただいた)。
 これらの官職にはすでにその生命を失った律令制の五位、六位という官位がともなった。形式のみの権威である。もちろん、これらは有料で与えられたものだった。  次のような試算がある。ある村の氏神の社人の例である。神道裁許状を授与されるためには、上京して吉田神道の特訓を受けなければならない。その交通費、滞在費、受領名や官位を得る費用は、しめて15両という。
 また、勝手に社人になるわけにはゆかない。その神社を支配する藩主の推薦状も必要だった。その謝礼もしなければならない。
 晴れて神官であることを吉田家から許可されれば、村の主だった名主や氏子を集めて披露の宴も開く。
 いま、金一両を七万円ないし七万五千円とすると、十五両は百十数万円となる。これに上に記したような雑多な費用を加えると、二百万円から三百万円を要したという。中小の社人にとっては過大な負担である。
 だから村によっては、村人たちが合力してわずかではあっても餞別の形で、総額一両以上の金額を乏しい村入用で負担している例もある。村にとっても氏神のこととはいえ、出費が大きいと陰で愚痴をこぼす者もいたらしい。
 そのほか、いくつかの例を挙げると、神社号を許可されるのに額字ともで十両(約70万円)、細かいところでは烏帽子着用に金一分(約1万8千円)、掛緒や沓の使用許可にもそれぞれ金一分が必要だった。吉田家にはこのような各物品の価格や許可に対する礼金のリストが作られていた。
三種太祓
 吉原滝氏の子孫のお宅には、文化2年(1805)のものではあるが、三種太祓を吉田家から許されたことを示す書類が残る。
 神官は文字どおり頭のてっぺんからつま先まで吉田家に管理されていたことになる。
 地方の一小社に過ぎない竜爪権現にも吉田家の圧力は確実に加えられていた。これを示すような記事が古今萬記録にもいくつか見られる。それを二、三紹介する。
 嘉永2年のことだが、吉田家から2人の御執役(吉田家で地方神社を管理する実務担当者)が由比宿に出張してきた。
 そして2人は庵原郡下の社人全員を旅宿に呼び出し、彼らからいちいち神社の経営状況を尋ね、かつ2人からは吉田家の最近の動きや政策などを伝えている。
 2人は由比宿に宿泊しているから、それなりの供応がなされたことはいうまでもない。
 また同じころ、吉田家の嫡男が元服したので、その祝儀を集めるべく庵原郡下の社人に触れ文が廻った。郡下の社人20人が興津の社人宅で会合を開いてあれこれ協議の結果、1人あたり百疋(一疋十文として一貫文)を集金している。これとは別に祝儀を持参する代表者の京都往復の旅費なども分担している。
 このほか前にも記したように、社人が代替わりをするたびに京都に赴いて吉田家で特別の教育を受けている。萬記録にも大和守正定はじめ伊勢守正好、大和守正次など平山滝氏の歴代社人の上京記事があるから、ほかの樽望月氏や布沢滝氏などの社人たちも同様だったはずである。
 また、長門正自身も萬記録の中に彼自身が吉田家から交付された神道裁許状の本文を筆写している。
 吉田家はこうして江戸幕府の権威を後盾に神位と神号の授与権を独占し、あわせて神官の補任権を手中に納め、強力な神職統制を実施した。そして全国の社人を金銭と制度の両面から締め付けたのであった。
山伏たちの運命
 山伏に対する幕府の厳しい規制はとどまるところを知らなかった。
 幕府は寺院に葬儀や仏事を媒介として農民と寺壇関係を結ばせ、宗旨人別帳の作成を寺院に命じた。その葬儀も寺院のみに許した。仏教を寺院に独占せしめた。その結果、山伏は仏教から締め出されることになる。
 他方、山伏が社人になろうとしても、吉田神道によって神職は厳重に統制されている。その吉田神道は全国の神社の管理権を仏教寺院から奪って、神職に与えようとする。
 そして、当然のことであるが、仏教側がいう本地垂迹説や神仏習合を否定する。本地垂迹説があるが故に、神道は仏教の下風を受け、僧侶が別当などの地位にあって、神社に奉仕する社人を顎使している、というのが吉田家側の言い分である。仏教側は仏が主で神が従、いわゆる仏本神迹である。
 吉田神道はこれが看過できなかった。唯一神道の名のとおり、神道を仏教より優位に置くことが吉田神道の仏教対策だったのである。こちらは神が主、仏が従の神本仏迹である。
 実践宗教として、教義も満足に持たない修験道の拠り所は神仏習合である。(修験道がその教理を理論化して、「木葉衣」「踏雲録事」はじめ、各種の教義書を編むようになるのは江戸時代後期である。いいかえれば、修験道が衰退した後に、このような体系的な書物が成立したのである。修験道が幕府から規制を受け、実践面が大きく制限されたために、暇ができたのだ)。修験道にあっては「神か仏か」という観念はない。あるのは「神も仏も」である。それが当時の庶民の感覚でもあった。庶民にとっては「神か仏か」よりも御利益の有無である。現世利益である。山伏はその庶民の欲求に答える宗教者だった。
 ところが吉田神道は修験道を否定し、神を優位に置く。他方で仏教は仏を優先する。仏教と吉田神道の間にあって山伏は、両者から弾き出されてしまったのである。
 山伏は吉田神道の支配下に入って社人となるか、真言宗や天台宗に改宗して僧侶になるかしかなくなった。もし2つとも拒否すれば、山伏はただの民間の拝み屋に堕する。一介の祈祷師に落ちぶれるのである。誇り高い山伏には耐えられることではなかった。
 にもかかわらず、神仏どちらにも与することができないままに落魄していった山伏は多かったはずだ。井原西鶴の小説にも「仕掛け山伏」の名でにせ山伏が登場する。護摩壇に細工を施し、詐欺まがいの祈祷をしていた。元緑の頃にはこのような怪しい山伏が横行していた。そして彼らがさらに落ちぶれると、祭文語りをはじめ、ちょんがれや阿呆陀羅経などの芸能によって、門付けをしながら各地を廻り、細々と生活を立てるようになることは日本芸能史の記すところである。
権兵街一族の対応
 それでは権兵衛はじめ望月氏や滝氏はどのようにこれに対応したのだろう。
 幕府が山伏の規制を強化し、吉田神道が神道界を支配し始めた寛文という時期に、権兵衛と藤兵衛は竜爪権現か富士村山修験かで争ったのである。
 結果は権兵衛派の勝利となり、寛文縁起と樽系図が作成され、権兵衛が彼に乗り移った竜爪権現の社人であることを布沢村や平山村、黒川村など地元の村人たちに承認された。敗れた藤兵衛は追放されて富士山麓に去って行った。
 権兵衛は山伏から社人に変身することにともかくも成功したのである。食い詰めた山伏として、人々から胡散臭い目で見られたり、軽蔑されずにすんだのだった。
 そして権兵衛と彼の一派は、竜爪山上に小さいながらも駿河における熊野両所権現の伝統を受け継いで、竜爪権現の社を建てることができた。それが現在も残る奥の院なのである。その奥の院の岩は両所権現がはじめて熊野に降りたと伝えるゴトビキ岩に見立てたものである。
 慶長12年(1607)の文書にあるように「この山は天狗のすみかだから、非常に荒れていて、一里四方に入って来る者はいない」というのは、彼らが上った竜爪山の当時の状況を現しているといえよう。熊野三山の勢力が、駿遠両国から撤退を余儀なくされたあと、人も入らず荒れ放題になっていたのである。
 また、御本社造営之覚帳は、権兵衛伝説を記してから、「宮柱立て」あるいは「宮柱太敷く立て」と書いている。「太敷く」は文飾としても、初めて竜爪権現の小社を建てた事情を物語るものである。
 竜爪山は海抜千bを越える。決して住むのに易しくない。居住の自由を奪われ、竜爪権現の社人として生きるためには、冬の寒さの厳しい竜爪山中で暮らさざるを得ない。しかし、どんなに貧と寒に苦しもうとも、寛文縁起にあるように権兵衛たちは竜爪権現の託宣に従って、この神に奉仕しなければならなかったのである。  そればかりではない。竜爪権現を支えるべき布沢村、樽村、平山村なども貧しかった。いま平山を例に取ろう。
 平山では江戸時代、1年を通じて米を食べられた家は、わずか2軒だったという。その当時、平山の世帯数は約50から60軒。そして、次のような話が伝わる。
 まだ、滝氏一族が竜爪山中に住んでいた頃、米を買うために一族の者がときどき下山することがある。社からもっとも近い平山には米がない。やむを得ず、社人の家族は百姓から借りた野良着に着替え、社人であることを隠して、米を求めて里に下っていったという。
 次のような話もある。
 竜爪山から望月氏、滝氏一族がわかれて樽、吉原、平山などに散ったとき、平山に下りる滝氏に平山の村人は条件を付けた。
 その条件とは平山ではとても滝氏を受け入れるだけの経済的な余裕がない。だから、平山への移住は認めるが、村人が依頼する祈祷や疫病流しはすべて無料にせよというものだった。
送り神の淵
送り神の淵
 滝氏は平山村民の要求を受け入れた。以後、歴代の社人たちは長尾川の「送り神の淵」(この淵は平山村と隣村の長尾村との境界に近い)で疫病流しや害虫送りを行なってきた。
 このような話が生まれることは、平山はもちろんのこと、竜爪山中の困難を極めた生活を物語るものなのだ。
 権兵衛はじめ望月氏や滝氏はこうした厳しい環境の中で、竜爪権現の社人としての第一歩を踏み出したのである。
 ところで、疫病流しであるが、医学の発達していない当時、ひとたび流行り病が発生すれば、一村全滅の恐れすらあった。疫病流しのときは、村中の人々は家々の軒先にむしろを敷いてその上に正座し、真剣な表情で「送り神の淵」に向かう社人のお祓いを受け、そして、村の庄屋以下三役が社人につき従っていたという。
吉田神道が要求する神格の変更
 しかし、竜爪権現の社人としての権兵衛一族の苦労はこれだけでは終わらなかった。
 時代が下がるにつれて、幕府と吉田神道の山伏封じ込めともいえる政策がますます強硬なものとなってゆく。
 吉田神道は竜爪権現に神格の変更を求めてきたのである。
 吉田神道の根本聖典というべき書物は「先代旧事本紀」「日本書紀」「古事記」の三書であることは前にも触れた。この三部書には天御中主神から始まり、八百万の神々と呼ばれるように実に多くの神々が記載されている。
 ところが、村の広場の片隅や山道の傍らや巨木の根元などには、神道三部書に登場しない雑多な神が祀られていた。今日でも数は少なくなったというものの、山村や農村には名も知れぬ神を祀った祠としか呼びようもない小さな社がある。
 このような小さな神々は、それを信ずる人たちの直接で日常的な祈りの対象になる神々だから、名前などはどうでもよかった。どうでもよかったとは言い過ぎだが、それほど関心を持たなかった。自分たちの悩みにただちに応じ、それを解決してくれる神でありさえすればよかったのである。病気や怪我のすみやかな完治、物の怪の退散、害虫駆除、魔除け、外部から侵入する災いを防ぐ、などなどである。だから、ご神体は蛇だったり、狐だったりすることもある。小石のような例も多い。
 鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞は、説法を聞きに来た老若男女に神祇不拝を繰り返し説いた。
 阿弥陀如来を信心すれば何も恐ろしいものはない、神に頼るなというのが彼の主張だった。弥陀の慈悲を我が身にいただけば、もっとも恐るべき死をも恐れるものではないと繰り返した。しかし、人々は阿弥陀如来のほかに神を信じることをやめなかった。
 最後には親鸞のほうが根負けして、念仏を唱える者には神の加護があるといわざるを得なかった。庶民が名もない神々に寄せる雑多な信仰には根強いものがあったのである。
 しかしながら、日本書紀の壮大な神の体系に組み込まれた由緒正しい神々では、人々のさまざまな願いには即座に対応できない。神々が組織化され、分業化しているから、多数の人々の持ついろいろな要望には敏速に応じきれないのだ。
 ところが、吉田神道はこのような人々の素朴な神信心の実態を無視し、神社に対して三部書の神々以外の神を認めなくなったのである。日本書紀や古事記のなかには竜爪権現などという名の神は登場しない。
 時代はすでに寛文年間から約80年を経過し、権兵衛死後の時代である。権兵衛の子孫の望月氏と滝氏が、吉田神道の神格変更の要求に対応して取った手段、それがこれから述べる延享縁起なのである。