龍爪山は静岡平野北部に屹立する標高千メ
|
トルの双峰の山
である
゚
峰の一方を薬師岳
`
他方を文珠岳と称し
`
項上にはそ
れぞれを祀
った近世の石仏がある
゚
山容そのものがすでに崇拝
の対象であ
ったことは充分想像され
`
龍爪という呼称の起源に
ついても龍
‖
雨の連想を中心とする諸説が出されているが
`
い
まだ定説をみない
`
山頂近い東腹の段をなした所に穂積神社が
鎮座するが
`
この社名は明治八年に定められたもの
︵
﹃
西奈村
誌
﹄
︶
で
`
近世には広く龍爪権現と呼ばれ
`
五穀豊穣
・諸難除
け
・鉄砲安全の神として周辺の人
々からあつい信仰を寄せられ
でいた
゚
龍爪山は静岡平野北部に屹立する標高千メ
|
トルの双峰の山
である
゚
峰の一方を薬師岳
`
他方を文珠岳と称し
`
項上にはそ
れぞれを祀
った近世の石仏がある
゚
山容そのものがすでに崇拝
の対象であ
ったことは充分想像され
`
龍爪という呼称の起源に
ついても龍
‖
雨の連想を中心とする諸説が出されているが
`
い
まだ定説をみない
`
山頂近い東腹の段をなした所に穂積神社が
鎮座するが
`
この社名は明治八年に定められたもの
︵
﹃
西奈村
誌
﹄
︶
で
`
近世には広く龍爪権現と呼ばれ
`
五穀豊穣
・諸難除
け
・鉄砲安全の神として周辺の人
々からあつい信仰を寄せられ
でいた
゚
本稿では多様な内容をもつ龍爪信仰のうち
`
特に近代におい
て周辺のみならず全国からも祈祷の依頼をうけることにな
った
玉除け
・徴兵逃れの信仰に重点をおいてまとめることにしたい
゚
なお当社は今に至るまで
﹁
龍爪さん
﹂
と呼び慣わされているの
で
`
本稿でも必要に応じて
`
この呼称を用いることにする
゚
龍爪権現としての祭祀は近世初頭に始ま
っ
たとされる
゚
庵原
郡樽
︵
現清水市
︶
の武田氏の旧臣望月権兵衛が山中で白鹿を撃
ち
`
その祟りで発狂したが
`
やがて神がかりして龍爪権現を祀
り諸願成就を祈るようにな
った
゚
従来
`
山中の亀石の段という所
に柴の折枝で宮形を作り祀
っていた神に対して改めて祠を作り
`
権兵衛も山中に居を構えて本格的に祀ることにしたという
︵
注一
︶
しかし
`
右の伝承にもあるように
`
亀石
`
すなわち神石
‖
磐
座を前に祭祀を行な
っていたことがわかるし
`
かなり以前から
牛の頭を捧げて雨を祈る風習が存在したことも明らかにされて
いるので
︵
注二
︶`基本的には豊穣を約束する神として
`権兵
衛以前から信仰を寄せられていたはずである
゚
それが多様な霊
験をもたらす龍爪権現として形を整えてい
っ
たのは
`
ひとえに
右の権兵衛およびその子孫の働きによる
゚
山中に住んだ権兵衛の子供達は
`
次
々に下山して六軒にわか
れて山麓に住みついた
゚
中河内村樽
・清地村
・布沢村
︵
二軒
︶
・
吉原村
・平山村で
`
すべて庵原郡の小島藩領下である
゚
彼らは
自宅に権現を祀り村人の祈祷の依頼をうけるとともに
`
例祭日
︵
正
・三
・九月の各十七日
︶
や
`
必要な時には山上にも滞在し
た
゚
六軒とも歴代の当主の大部分が吉田家の許状を受けてきた
が
`
明治期にな
ってから平山の瀧家以外は神官をやめている
゚
六家はそれぞれ布教区域をわけ合
って活動していたらしく
`
た
とえば樽の望月家は富士川方面へ
`
布沢の望月家は伊豆七島ま
で行
ったそうだ
`
と伝えているが裏付けとなる史料はない
゚
た
だ平山の瀧家には若干の文書が残
っていて
`
それによると
`
駿
府市中の町家に対し
`
丁頭を通して三千七百余枚の引札を配布
していたこと
`
参拝者から永代祈祷の依頼を受けていたことな
どが判明する
゚
この
﹁
永代御祈祷帳
﹂
には文政期から明治初期に至る祈祷依
頼者と目的が記されており
`
武家については
﹁
御武運長久
﹂
`
町人には
﹁
開運長久
・盗賊除け
・火難除け
﹂
`
漁業者には
﹁
毎
月海漁満足
﹂
などがみられる
゚
また個人の祈願の他に
﹁
毎月猪
鹿除ケ御祈祷 嶋田在野田村波田 講中
﹂
のように
`
講を結成
して代参をたてた村があ
ったことも窺える
゚
豊作
・虫除け
・害
獣除けはやはり龍爪さんの最大の御利益であり
`
祭日には山中
からシキミの葉を持ち帰り各戸に配
った
︵
由比町桜野
︶
とか
`
富士川町には
﹁
ありがたや黍稷を守る龍爪さま お山のけしき
見ゆるサド神
﹂
という御詠歌を伝える観音堂があり
︵
﹃
富士川
町史
﹄
追捕
︶
`
信仰圏の拡大をも示している
゚
文化五年三月十七日に登山した駿府勤番の武士は
`
﹁
此日の
祭礼は如何成故にや鉄砲祭りとて大筒小筒玉薬を持登りて処定
めず打出す
`
目当の角を建置たる所もあり
`
斯恐敷高山に此日
は婦人迄も登山す
`
夥敷人なれば径狭くして行違ふ時避る地な
し
﹂
︵
﹃
日古登能不二
﹄
︶
と記している
゚
鉄砲祭りの起源は明
らかではないが
`
さきの権兵衛が銃猟をしていたことと
`
山の
神の祭祀とが結びついたものであろう
゚
豊猟
・害獣除け
・鉄砲
事故除けにつながるとされ
`
鉄砲祭りは龍爪さんの代名詞にも
な
っていた
゚
昭和期の様子を簡単に記すと
`
拝殿と本殿の中間
に設けられた射場に銃架を組み
`
三十メ
|
トルほど離れた十二
の的を撃つもので
`
命中者はその的を持ち帰ることができた
゚
龍爪さんは鉄砲の音が好きだといわれていて
`
山麓一帯の村
々
でも空砲を撃ち鳴らした所が多い
゚
なおこうした鉄砲の的撃ち神事は
`
他にも旧安倍郡清沢村赤
沢の山神社例祭において現在でも行なわれており
`
同郡梅
ヶ島
村新田においても近年まで行なわれていた
゚
鉄砲祭りは龍爪さ
んだけのものではなか
ったが
`
広範な信仰圏をもつこともあ
っ
て近在に広く知られた
゚
そして
`
この鉄砲にかかわる信仰が近
代の龍爪信仰の中心にな
っていくのである
゚
在島田市に属す旧志太郡大津村の場合
`
﹁
昔狩猟に熱心な人が
静岡在の龍爪山から分神を奉じて祀
った
﹂
︵
﹃
大津村誌
﹄
︶
と
いい
`
弾丸除けの神として日露戦争から太平洋戦争に至るまで
参拝者ひきもきらずのありさまで
`
在郷軍人会が境内に射的場
を作り会員に射的の指導をした
゚
龍爪山のある庵原郡より西で
はこの一例しか確認できないが
`
本県の東部には直接調査でき
た
︵
注三
︶
ものだけでも
`駿東郡長泉町元長窪
・三島市伊豆佐
野
・同元山中
・同小沢
・田方郡函南町桑原
・賀茂郡松崎町小杉
原と六
ヵ所あり
`
さらに文献等により伊東市や田方郡下に数
ヵ
所が指摘できる
゚
右のうち伊豆佐野
・小杉原では鉄砲による的
繋ちが行なわれていたし
`
元長窪と桑原以外では弾丸除け信仰
も盛んであ
った
゚
鉄砲の神さんだ
`
という表現と丘陵上に祠が
あるという立地条件はすべてに共通する
゚
次に勧請の由来や動機をみると
`
三島市小沢の場合が最も明
確で
﹁
嘉永弐年酉ノ三月十七日小沢元山中両字ニテ駿州江尻在
龍爪山穂積大神ノ本社ニ分霊ヲ請ヒ奉安置
﹂
と
`
明治三七年作
成の
﹁
社殿再建由来書
﹂
︵
仮称
︶
にある
゚
はじめ二つの字が共
同で勧請し元山中に社殿を作
っ
たが焼失し
`
のち二つにわけて
それぞれで再建したと伝える
゚
ただ誰が何の目的で勧請したの
かは明らかでない
゚
次に小杉原の伝承を記すと
`
猪狩りをや
っ
ている仲間で龍爪さんの神体をうけに行
っ
たといい
`
社前に明
治二年銘の水鉢があること
`
仲間の一人は弘化二年生まれとの
ことだから
`
勧請時期は明治元年前後ということになろう
゚
ところが函南町桑原には注目すべき伝承がある
゚
当地では龍
爪さんの石祠の背後に戦死した村人の墓地が造成されているが
`
その用地を提供した十九名の氏名を刻んだ記念碑の裏面に
﹁
表
記ノ所有者先祖ハ特ニ鉄砲ヲ持チ當ニ野獣鳥ヲ狩猟シ農作物ヲ
保護シタル功ニ依リ元韮山藩ヨリ米六俵ヲ賜リ之ヲ以テ毎年二
月二八日當龍爪神社ノ祭祀ヲ挙行シ今日ニ及ブ 山崎安正
﹂
と
ある
゚
この完成は昭和二九年のことで
`
筆者も故人とな
っ
てい
るので如何なる史料に拠
ったのかは不明だが
`
小田原藩から鉄
砲扶持をもら
っ
ていたという伝承は今も聞かれる
︵
当村は
﹃
旧
高旧領
﹄
によると大久保加賀守一四六石余
`
松平鉚之助一四七
石余
︶
゚
このように現在判明する例をみると
`
勧請時期は幕末
`
主体
は鉄砲を扱う人
々ということになるのだが
`
ではなぜこの時期
に
`
わざわざ龍爪さんを勧請しなければならなか
ったのだろう
か
゚
いわゆる山の神はどこにもあり
`
猟に関する普通の祈願で
あるならば
`
それで充分のはずである
゚
従
ってこれは龍爪さん
ならではの
`
諸難除け
・鉄砲事故無しという御利益が期待され
たとみるべきであろう
゚
では
`
幕末期に鉄砲を所持する者にふ
りかか
ってきた災厄は何か
゚
そこで考えられるのが
`
いわゆる
農兵の編成である
゚
沼津藩は文化四年に郷筒と称する一種の農兵を組織した
゚
田
方郡平井村の史料によれば
﹁
猟師筒四十人江年
々御米被下
`
郷
筒と申名目ヲ付
`
御用向有之候節者呼出御仕ひ被成候
﹂
という
もので
`
四十人編成
`
任期十年
`
年に一度ずつ鉄砲稽古に出る
ことにな
っていた
︵
﹃
函南町誌
﹄
上巻
︶
゚
韮山代官江川英龍に
よる農兵隊編成よりかなり早く
`
沼津藩領下では一般農民の鉄
砲をあてにした組織ができつつあ
ったのである
゚
なお志太郡か
ら有渡郡にかけての美濃岩村藩に属する村々においても
﹁
領内
差免置候猟師筒威筒三五挺
﹂
に役所の鉄砲をあわせた海防組織
が寛政七年にはすでにできていた
︵
﹃
岡部町史
﹄
︶
゚
現在のところ
`
龍爪社を勧請した村と農兵史料の存在する村
と一致している例はないが
`
私領の方が早くからこうした組識
化をすすめていたし
`
待に相模湾に近い伊豆国方面では海防に
からめた編成が進んだと予想される
゚
県東部における龍爪さん
の勧請は
`
庶民をも戦いの場に引き出しかねない農兵組識の編
成と並行していたわけで
`
のちに大発展する龍爪さんの弾除け
・
徴兵逃れの信仰の萠芽がここに見られるのである
゚
平山の瀧家文書に含まれている御初穂の包紙のうちに
`
祈祷
内容
・氏名
・年月日を記したものがあるので
`
平凡な内容の商
人
・農民を除いて武士だけを古い順に並べてみた
︵
第一表
︶
゚
一見して明らかなように
`
幕府による第二次長州征伐を契機に
無事帰宅
`
矢玉除けの祈祷が始ま
っ
ている
゚
たとえば
`
慶応元
年九月の大久保紀伊守
︵
山麓に近い瀬名村を采地とする旗本
︶
と中川東太夫主従は
﹁
将軍様御進発ニ付大坂表へ御供仕候ニ付
武運長久無事安全
﹂
を祈願しているし
`
﹁
矢玉除け
﹂
のお札を
大量にもら
っている例が何件もある
゚
長州征伐が失敗に帰し官
軍が東征して駿府に入
っ
てからは
`
福岡在の人物が矢玉除けの
御守をうけに参拝している
゚
これらの例によ
っ
て
`
龍爪さんに
対する信仰は
`
鉄砲祭りからの自然な発展として
`
戦時におけ
る武運長久
`
具体的には矢玉除けの御利益を期待することが中
第一表 祈祷料包紙よりみた武家の折願内容
二月十五日 沼津藩中七十名にて鉄砲的額奉納
︵
代参十人
︶
安政三
五月二四日
二六日
駿府城内勤番組小栗小膳
︵
八月
幕府第一次長州征伐出陣を命ず
︶
慶応元
︵
閏五月一日
駿府市中にて御進発上納金発令
︶
七月二五日
久能榊原様御家中
︵
矢玉除一八八枚など
︶
四月七日まて滞在
︶
︵
その他日付不明
田沼玄蕃守
・町奉行石野八太夫内
・
明治六年
`
徴兵制が施行された
゚
当初は抜け穴が多く徴兵逃れ
もかなり容易にできたが
`
明治十八年の改正以降
`
代人制廃止
`
養子の口が狭くなるとい
っ
たことのために
`
検査合格者は現役
兵選抜のためのクジにはずれることに一縷の望みをかけるよう
になり
`
ここに徴兵逃れを神仏に祈る風が急速に広まってい
っ
た
︵
注四
︶
゚これを龍爪さんについてみると
`すでに有名に
な
っていた矢玉除けからの連想が
`
平時における徴兵逃れへと
発展してい
った
゚
さらに徴兵も庶民にと
っては一種の災厄であ
るから
`
古くからの諸難除けの御利益ともあわさ
って
`
あらた
めて人気を呼ぶようになったと考えられる
゚
龍爪さんにおいて徴兵逃れの祈祷をしていたことは
`
次の書
簡によくあらわれている
゚
拝啓 春暖之時節と相成候
`
さて承り候へば
`
徴兵除の御祈
祷なされ候由
`
小生儀も長男には先年去られ而
`
今又次男正次
なるもの徴兵適齢に侯て
`
今次男に
`
シて合格入営等の事あり
ては実に一家の生計にも差閊候次第
`
何率御神力を持ちまシて
徴兵除相成侯様御祈祷成被下度
`
付て□御祈祷料金及御守護拝
授料等何程納め候てよろしきや
`
恐縮之至りに侯へとも御一報
被下度
`
茲に以書面御伺申候
右の手紙は
`
封書の上書きにより明治三七年と知れる
゚
日露
戦争が開始されたばかりであり
`
父親の苦衷がよく表れている
゚
なお大正十年に北海道天塩国上川郡剣淵村温根別からも同様
の依頼をしてきた手紙がある
゚
かつてはこうした手紙が文字通
り山のように保存されていたが
`
現在は数通しか残
っていない
゚
これらから
`
徴兵逃れをかなえる龍爪さんの名が全国的規模
で知られていたことがわかるが
`
近在に住む者は例祭日に登山
して直接祈願をした
゚
特に当日
`
神輿をかつぐと徴兵逃れにな
るといわれており
`
社務所では希望者には白張を貸与して参加
させた
゚
﹃
明治三三年度御幸奉供人名記
﹄
を見ると
`
記載され
た八三名のうち年齢の判定できる者十九名
`
うち十三名が辰年
`
すなわち当年満二十歳になる者であるから
`
大部分が徴兵逃れ
を期待しての参加であったとみてよい
゚
八三名の出身地をみる
と
`
かなりの広範囲に及んでいることがわかる
︵
別掲地図参照
︶
゚この史料よりさらにさかのぼり
`明治二五年
同二八年ま
でを記した
﹃
開運祭人名手扣
﹄
︵
第二表参照
︶
は特に神輿供奉
者とはしてないが
`
やはり年齢を明記してある者の大部分がそ
の年に満二十歳となる者であること
`
またたとえば二六年は酉
年の者が二十歳にあたるが
`
﹁
戌明年
﹂
という書き込みがあ
っ
て
`
十九歳の者が一年早く祈祷をかけていると想像されること
などから
`
徴兵逃れを期待しての祈祷であ
ったとみて間違いな
い
゚
特に明治二八年の人数が倍増していることは
`
日清戦争に
おいても庶民の真情がどこにあったかを示すひとつの証拠とな
ろう
゚
第2表 開運祭に祈祷を依頼した者の生年と人数
生年 祈願年 |
未 明4 |
申 5 |
酉 6 |
戌 7 |
亥 8 |
子 9 |
丑 10 |
寅 11 |
卯 12 |
辰 13 |
不 明 |
合 計 |
明治25年 | 2 | 24 | 1 |
| 16 | 43 |
26 | 8 | 23 | 13 | 8 | 1 | 26 | 79 |
27 | 2 | 68 | 4 | 3 | 3 | 1 | 14 | 95 |
28 | 1 | 2 | 13 | 146 | 8 | 3 | 1 |
| 17 | 191 |
|
| (前回丑1) |
|
|
このように龍爪さんは庶民の願望に添う形で発展していくが
`
軍隊との関係がそのために悪化するようなことはなか
ったらし
い
゚
日露戦争が始まるや
`
社務所からは静岡の第三四連隊に神
符を贈
って感謝されているし
`
軍人もしばしば登拝している
゚
第一次大戦が終了した大正八年には
﹁
戦争終詰后一反幟納メ致
スノ願ヲ掛ケ
﹂
ていた三四連隊の軍人が
`
幟の形を問い合わせ
る葉書を寄越している
゚
少なくとも龍爪さんに関してはかなり
公然と徴兵逃れの神としての名がひろま
っていながら
`
それを
禁圧するようた施策がい
っさいなか
ったらしいことは
`
大変興
味のある問題である
゚
しかし
`
さすがに満州事変の始ま
った頃からは徴兵逃れを表
だ
って祈願することはできなくな
ったという
゚
地元の平山部落
では
`
毎年徴兵検査前におばあさん達が中心にな
って山上の拝
殿でお籠りをした
゚
部落内の適齢者が兵隊にとられないように
という祈願であ
ったが
`
これをやらなくな
ったのがち
ょうどそ
の頃であ
ったという
゚
その後
`
日中戦争の長期化とともに昭和十四年にな
って現役
兵をとるについてのクジ引きが廃止されると
︵
注五
︶
`龍爪さ
んは無事帰還を祈る弾丸除け一色にな
っていく
゚
昭和十九年は
稀にみる参拝者の多い年で
`
大祭日の賽銭合計が四二六円余
`
おひねりの米が合わせて三俵余にな
ったという
︵
注六
︶
゚その
ころ
`
社務所で頒けた弾丸除けの護符は
`
神名を刷
った紙片を
小さくたたんで金紙や銀紙に包んだものだが
`
その用紙は神前
で用いた幣束の紙を使うことになっており
`
参拝者が多すぎて
足りなくたると臨時祭を行なって紙を増やしたという
゚
例祭日
の雑踏ぶりは今でも語り草であるが
`
平日にも留守家族の参拝
が多く
`
登山口の茶店では
﹁
玉除け羊かん
﹂
と銘う
った蒸し羊
かんを売り出したものである
゚
しかし
`
ひとたび戦いが敗戦に終るや
`
手のひらをかえすよ
うに参拝者が激減した
゚
もちろん
`
中には自分の生還は龍爪さ
んのお蔭であると信じ
`
今でもお礼参りを欠かさぬ人がいるが
`
イクサ神としての印象が強かっただけ
`
その衰弊ぶりも強烈で
あった
゚
今から十年ほど前に社殿はす
っかり破壊され
`
平山
の神官家の御信所に住時を偲ぶばかりである
゚
龍爪信仰を特徴づける玉除け
・徴兵逃れの信仰は
`
農兵の組
織化から徴兵制の施行を経て発展する日本の近代兵制と深いつ
ながりをも
っていた
゚
戦時における玉除け
`
平時における徴兵
逃れという大きな起伏を示しつつ展開した龍爪さん百年の歴史
は
`
近代日本の戦争の歴史と表裏一体をなすものであるととも
に
`
戦争に対する庶民の切ない感情を綴ったものでもある
゚
だ
が
`
こうした玉除け信仰を
`
信仰の類型の一つとして抽象化す
れば
`
やはり一種の流行神的な存在として位置づけることがで
きる
゚
思いがけず時流に乗った龍爪さんは
`
敗戦に続く平和国
家建設の中にその意味を全く失い
`
逆に手ひどいし
っぺ返しを
く
ったのである
゚
なお
`
龍爪さんについては
`
自然崇拝から始ま
った農業神と
しての性格を基盤とする
`
も
っと根深い信仰があ
った
゚
本稿で
は
`
紙幅の関係からそのことについては詳述できなかったので
`
地方の一霊山としての龍爪さんの全容の解明については
`
他日
を期すことにする
゚