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玉除け
・徴兵逃れとしての龍爪信仰


`
国会図書館
では
`
雑誌で歴史手帳









所蔵されていま

静岡県立中央図書館
・静岡市立静岡中央図書館は
`
岡県の民俗文化で蔵書検索できました
 ﹁
牛と雨乞いの民俗


`
国会図書館では
`
日本社会史
研究


芳賀幸四郎先生古稀記念










で所蔵
されています
静岡県立中央図書館は
`
芳賀幸四郎先生古
稀記念日本社会史研究で蔵書検索できました
 

安倍川

その風土と文化


静岡新聞社掲載内容の紹
介が有る 静岡県近代史研究会 会報は
`
国会図書館では
`






4です
年号



0で閲覧希望で出すと見
ることが出来ます
静岡県立中央図書館でも閲覧できるそ
うですが
`
蔵書検索は
`
していません
 龍爪権現の緑起については
`
近世の駿河国の地誌に略述
されているほか
`
後述する旧祢宜家にも数種の稿本がある
なお昭和八年に静岡中学校郷土研究会の機関誌

郷のかを


外字〜七号に連載された望月光春

当時中学五年生


龍爪について


`
管見の限り
`
龍爪信仰成立に関する最
初のまとま

た論考である
 拙稿

牛と雨乞いの民俗



芳賀幸四郎先生古稀記念
日本社会史研究

笠間書院
 三島郷土館学芸員の杉村斉氏の御教示によるところが大
きい
 大江志乃夫

徴兵制


岩波新書
 中川雄太郎

村の民俗


水韻社
 大江氏前掲書
玉除け
・徴兵逃れとしての龍爪信仰
中村羊一郎
はじめに
 龍爪山は静岡平野北部に屹立する標高千メ

トルの双峰の山
である

峰の一方を薬師岳
`
他方を文珠岳と称し
`
項上にはそ
れぞれを祀
った近世の石仏がある

山容そのものがすでに崇拝
の対象であ
ったことは充分想像され
`
龍爪という呼称の起源に
ついても龍

雨の連想を中心とする諸説が出されているが
`
まだ定説をみない
`
山頂近い東腹の段をなした所に穂積神社が
鎮座するが
`
この社名は明治八年に定められたもの


西奈村




`
近世には広く龍爪権現と呼ばれ
`
五穀豊穣
・諸難除

・鉄砲安全の神として周辺の人
々からあつい信仰を寄せられ
でいた
 龍爪山は静岡平野北部に屹立する標高千メ

トルの双峰の山
である

峰の一方を薬師岳
`
他方を文珠岳と称し
`
項上にはそ
れぞれを祀
った近世の石仏がある

山容そのものがすでに崇拝
の対象であ
ったことは充分想像され
`
龍爪という呼称の起源に
ついても龍

雨の連想を中心とする諸説が出されているが
`
まだ定説をみない
`
山頂近い東腹の段をなした所に穂積神社が
鎮座するが
`
この社名は明治八年に定められたもの


西奈村




`
近世には広く龍爪権現と呼ばれ
`
五穀豊穣
・諸難除

・鉄砲安全の神として周辺の人
々からあつい信仰を寄せられ
でいた
 本稿では多様な内容をもつ龍爪信仰のうち
`
特に近代におい
て周辺のみならず全国からも祈祷の依頼をうけることにな
った
玉除け
・徴兵逃れの信仰に重点をおいてまとめることにしたい
なお当社は今に至るまで

龍爪さん

と呼び慣わされているの

`
本稿でも必要に応じて
`
この呼称を用いることにする

 龍爪信仰の起源とその展開
 龍爪権現としての祭祀は近世初頭に始ま

たとされる

庵原
郡樽

現清水市

の武田氏の旧臣望月権兵衛が山中で白鹿を撃

`
その祟りで発狂したが
`
やがて神がかりして龍爪権現を祀
り諸願成就を祈るようにな
った

従来
`
山中の亀石の段という所
に柴の折枝で宮形を作り祀
っていた神に対して改めて祠を作り
`
権兵衛も山中に居を構えて本格的に祀ることにしたという

注一

 しかし
`
右の伝承にもあるように
`
亀石
`
すなわち神石

座を前に祭祀を行な
っていたことがわかるし
`
かなり以前から
牛の頭を捧げて雨を祈る風習が存在したことも明らかにされて
いるので

注二

`
基本的には豊穣を約束する神として
`
権兵
衛以前から信仰を寄せられていたはずである

それが多様な霊
験をもたらす龍爪権現として形を整えてい

たのは
`
ひとえに
右の権兵衛およびその子孫の働きによる
 山中に住んだ権兵衛の子供達は
`

々に下山して六軒にわか
れて山麓に住みついた

中河内村樽
・清地村
・布沢村

二軒

吉原村
・平山村で
`
すべて庵原郡の小島藩領下である

彼らは
自宅に権現を祀り村人の祈祷の依頼をうけるとともに
`
例祭日


・三
・九月の各十七日


`
必要な時には山上にも滞在し


六軒とも歴代の当主の大部分が吉田家の許状を受けてきた

`
明治期にな
ってから平山の瀧家以外は神官をやめている
六家はそれぞれ布教区域をわけ合
って活動していたらしく
`
とえば樽の望月家は富士川方面へ
`
布沢の望月家は伊豆七島ま
で行
ったそうだ
`
と伝えているが裏付けとなる史料はない

だ平山の瀧家には若干の文書が残
っていて
`
それによると
`
駿
府市中の町家に対し
`
丁頭を通して三千七百余枚の引札を配布
していたこと
`
参拝者から永代祈祷の依頼を受けていたことな
どが判明する
 この

永代御祈祷帳

には文政期から明治初期に至る祈祷依
頼者と目的が記されており
`
武家については

御武運長久

`
町人には

開運長久
・盗賊除け
・火難除け

`
漁業者には

月海漁満足

などがみられる

また個人の祈願の他に

毎月猪
鹿除ケ御祈祷 嶋田在野田村波田 講中

のように
`
講を結成
して代参をたてた村があ
ったことも窺える

豊作
・虫除け
・害
獣除けはやはり龍爪さんの最大の御利益であり
`
祭日には山中
からシキミの葉を持ち帰り各戸に配
った

由比町桜野

とか
`
富士川町には

ありがたや黍稷を守る龍爪さま お山のけしき
見ゆるサド神

という御詠歌を伝える観音堂があり


富士川
町史

追捕

`
信仰圏の拡大をも示している

 鉄砲祭りと各地への勧請
千八百八
 文化五年三月十七日に登山した駿府勤番の武士は
`

此日の
祭礼は如何成故にや鉄砲祭りとて大筒小筒玉薬を持登りて処定
めず打出す
`
目当の角を建置たる所もあり
`
斯恐敷高山に此日
は婦人迄も登山す
`
夥敷人なれば径狭くして行違ふ時避る地な




日古登能不二


と記している

鉄砲祭りの起源は明
らかではないが
`
さきの権兵衛が銃猟をしていたことと
`
山の
神の祭祀とが結びついたものであろう

豊猟
・害獣除け
・鉄砲
事故除けにつながるとされ
`
鉄砲祭りは龍爪さんの代名詞にも

っていた

昭和期の様子を簡単に記すと
`
拝殿と本殿の中間
に設けられた射場に銃架を組み
`
三十メ

トルほど離れた十二
の的を撃つもので
`
命中者はその的を持ち帰ることができた
龍爪さんは鉄砲の音が好きだといわれていて
`
山麓一帯の村
でも空砲を撃ち鳴らした所が多い
 なおこうした鉄砲の的撃ち神事は
`
他にも旧安倍郡清沢村赤
沢の山神社例祭において現在でも行なわれており
`
同郡梅
ヶ島
村新田においても近年まで行なわれていた

鉄砲祭りは龍爪さ
んだけのものではなか
ったが
`
広範な信仰圏をもつこともあ
て近在に広く知られた

そして
`
この鉄砲にかかわる信仰が近
代の龍爪信仰の中心にな
っていくのである
 静岡県内には龍爪さんを
勧請している所がいくつかある

在島田市に属す旧志太郡大津村の場合
`

昔狩猟に熱心な人が
静岡在の龍爪山から分神を奉じて祀
った



大津村誌


いい
`
弾丸除けの神として日露戦争から太平洋戦争に至るまで
参拝者ひきもきらずのありさまで
`
在郷軍人会が境内に射的場
を作り会員に射的の指導をした

龍爪山のある庵原郡より西で
はこの一例しか確認できないが
`
本県の東部には直接調査でき


注三

ものだけでも
`
駿東郡長泉町元長窪
・三島市伊豆佐

・同元山中
・同小沢
・田方郡函南町桑原
・賀茂郡松崎町小杉
原と六
ヵ所あり
`
さらに文献等により伊東市や田方郡下に数
所が指摘できる

右のうち伊豆佐野
・小杉原では鉄砲による的
繋ちが行なわれていたし
`
元長窪と桑原以外では弾丸除け信仰
も盛んであ
った

鉄砲の神さんだ
`
という表現と丘陵上に祠が
あるという立地条件はすべてに共通する

「明治33年度御幸奉供人名記」より
 次に勧請の由来や動機をみると
`
三島市小沢の場合が最も明
確で

嘉永弐年酉ノ三月十七日小沢元山中両字ニテ駿州江尻在
龍爪山穂積大神ノ本社ニ分霊ヲ請ヒ奉安置


`
明治三七年作
成の

社殿再建由来書


仮称

にある

はじめ二つの字が共
同で勧請し元山中に社殿を作

たが焼失し
`
のち二つにわけて
それぞれで再建したと伝える

ただ誰が何の目的で勧請したの
かは明らかでない

次に小杉原の伝承を記すと
`
猪狩りをや
ている仲間で龍爪さんの神体をうけに行

たといい
`
社前に明
治二年銘の水鉢があること
`
仲間の一人は弘化二年生まれとの
ことだから
`
勧請時期は明治元年前後ということになろう
 ところが函南町桑原には注目すべき伝承がある

当地では龍
爪さんの石祠の背後に戦死した村人の墓地が造成されているが
`
その用地を提供した十九名の氏名を刻んだ記念碑の裏面に

記ノ所有者先祖ハ特ニ鉄砲ヲ持チ當ニ野獣鳥ヲ狩猟シ農作物ヲ
保護シタル功ニ依リ元韮山藩ヨリ米六俵ヲ賜リ之ヲ以テ毎年二
月二八日當龍爪神社ノ祭祀ヲ挙行シ今日ニ及ブ 山崎安正

ある

この完成は昭和二九年のことで
`
筆者も故人とな

てい
るので如何なる史料に拠
ったのかは不明だが
`
小田原藩から鉄
砲扶持をもら

ていたという伝承は今も聞かれる

当村は

高旧領

によると大久保加賀守一四六石余
`
松平鉚之助一四七
石余

 このように現在判明する例をみると
`
勧請時期は幕末
`
主体
は鉄砲を扱う人
々ということになるのだが
`
ではなぜこの時期

`
わざわざ龍爪さんを勧請しなければならなか
ったのだろう


いわゆる山の神はどこにもあり
`
猟に関する普通の祈願で
あるならば
`
それで充分のはずである


ってこれは龍爪さん
ならではの
`
諸難除け
・鉄砲事故無しという御利益が期待され
たとみるべきであろう

では
`
幕末期に鉄砲を所持する者にふ
りかか
ってきた災厄は何か

そこで考えられるのが
`
いわゆる
農兵の編成である
 沼津藩は文化四年に郷筒と称する一種の農兵を組織した

方郡平井村の史料によれば

猟師筒四十人
々御米被下
`
筒と申名目ヲ付
`
御用向有之候節者呼出御仕ひ被成候

という
もので
`
四十人編成
`
任期十年
`
年に一度ずつ鉄砲稽古に出る
ことにな
っていた


函南町誌

上巻


韮山代官江川英龍に
よる農兵隊編成よりかなり早く
`
沼津藩領下では一般農民の鉄
砲をあてにした組織ができつつあ
ったのである

なお志太郡か
ら有渡郡にかけての美濃岩村藩に属する村々においても

領内
差免置候猟師筒威筒三五挺

に役所の鉄砲をあわせた海防組織
が寛政七年にはすでにできていた


岡部町史


 現在のところ
`
龍爪社を勧請した村と農兵史料の存在する村
と一致している例はないが
`
私領の方が早くからこうした組識
化をすすめていたし
`
待に相模湾に近い伊豆国方面では海防に
からめた編成が進んだと予想される

県東部における龍爪さん
の勧請は
`
庶民をも戦いの場に引き出しかねない農兵組識の編
成と並行していたわけで
`
のちに大発展する龍爪さんの弾除け
徴兵逃れの信仰の萠芽がここに見られるのである

 弾除け祈願から徴兵逃れへ
 平山の瀧家文書に含まれている御初穂の包紙のうちに
`
祈祷
内容
・氏名
・年月日を記したものがあるので
`
平凡な内容の商

・農民を除いて武士だけを古い順に並べてみた

第一表

一見して明らかなように
`
幕府による第二次長州征伐を契機に
無事帰宅
`
矢玉除けの祈祷が始ま

ている

たとえば
`
慶応元
年九月の大久保紀伊守

山麓に近い瀬名村を采地とする旗本
と中川東太夫主従は

将軍様御進発ニ付大坂表へ御供仕候ニ付
武運長久無事安全

を祈願しているし
`

矢玉除け

のお札を
大量にもら
っている例が何件もある

長州征伐が失敗に帰し官
軍が東征して駿府に入

てからは
`
福岡在の人物が矢玉除けの
御守をうけに参拝している

これらの例によ


`
龍爪さんに
対する信仰は
`
鉄砲祭りからの自然な発展として
`
戦時におけ
る武運長久
`
具体的には矢玉除けの御利益を期待することが中
心とな
っていくことがわかる

第一表 祈祷料包紙よりみた武家の折願内容
二月十五日 沼津藩中七十名にて鉄砲的額奉納

代参十人
壱八五六
安政三
五月二四日外字〜二六日
 駿府城内勤番組小栗小膳
五百度の祈祷
壱八六〇
万延元
六月十一日
同右
布施権十郎妹三四才

八月
 幕府第一次長州征伐出陣を命ず
壱八六四
元治元

四月
 慕府第二次長州征伐発令
壱八六五
慶応元

閏五月一日
 駿府市中にて御進発上納金発令
閏五月十一日
 島津伊子守の代参

道中無事
閏五月十四日
 長崎熊之丞主従

公方様
御進発の御供無事帰宅祈願

同二四日
家茂上京参内
九月八日
 江戸屋敷の人

大坂へ出張
`
御守一二五枚
九月

中川東太夫

大久保紀伊守につ
いて大坂へ

道中安全矢玉除祈願

九月二一日
 家茂参内
壱八六六
慶応二

六月七日
 第二次征長戦闘開始
七月二五日
 久能榊原様御家中

矢玉除一八八枚など
九月十六日
 宮
ヶ崎御役所大沢某

長防
一参ニ付矢玉除御守二十枚
壱八六八
慶応四

二月十四日
 沼津藩主
`
官軍に誓紙提出

三月五日
 官軍大総督駿府入り
外字〜四月七日まて滞在
三月二二日
 筑前国福岡在藤五郎ら四名

矢玉除信心
三月二四日
 沼津藩中代参森下楯之助

無事安全開運長久矢玉除千枚
三月二四日
同右
子の年十七才の者
二六日
 福岡藩中五人連中

その他日付不明
 田沼玄蕃守
・町奉行石野八太夫内
青山大膳内
・山勝治右衛門
・諏訪若狭守
明治六年
`
徴兵制が施行された

当初は抜け穴が多く徴兵逃れ
もかなり容易にできたが
`
明治十八年の改正以降
`
代人制廃止
`
養子の口が狭くなるとい

たことのために
`
検査合格者は現役
兵選抜のためのクジにはずれることに一縷の望みをかけるよう
になり
`
ここに徴兵逃れを神仏に祈る風が急速に広まってい


注四



これを龍爪さんについてみると
`
すでに有名に

っていた矢玉除けからの連想が
`
平時における徴兵逃れへと
発展してい
った

さらに徴兵も庶民にと
っては一種の災厄であ
るから
`
古くからの諸難除けの御利益ともあわさ
って
`
あらた
めて人気を呼ぶようになったと考えられる
 龍爪さんにおいて徴兵逃れの祈祷をしていたことは
`
次の書
簡によくあらわれている
北海道からの依頼文。「兵隊ノガレ」とはっきり読める
北海道からの依頼文
 拝啓 春暖之時節と相成候
`
さて承り候へば
`
徴兵除の御祈
祷なされ候由
`
小生儀も長男には先年去られ而
`
今又次男正次
なるもの徴兵適齢に侯て
`
今次男に
`
シて合格入営等の事あり
ては実に一家の生計にも差閊候次第
`
何率御神力を持ちまシて
徴兵除相成侯様御祈祷成被下度
`
付て□御祈祷料金及御守護拝
授料等何程納め候てよろしきや
`
恐縮之至りに侯へとも御一報
被下度
`
茲に以書面御伺申候
郵券三銭封入仕り侯
信州上伊那郡阿南村
三月二二日
伊東正三郎
龍爪山社務所御中
 右の手紙は
`
封書の上書きにより明治三七年と知れる

日露
戦争が開始されたばかりであり
`
父親の苦衷がよく表れている
なお大正十年に北海道天塩国上川郡剣淵村温根別からも同様
の依頼をしてきた手紙がある

かつてはこうした手紙が文字通
り山のように保存されていたが
`
現在は数通しか残
っていない
 これらから
`
徴兵逃れをかなえる龍爪さんの名が全国的規模
で知られていたことがわかるが
`
近在に住む者は例祭日に登山
して直接祈願をした

特に当日
`
神輿をかつぐと徴兵逃れにな
るといわれており
`
社務所では希望者には白張を貸与して参加
させた


明治三三年度御幸奉供人名記

を見ると
`
記載され
た八三名のうち年齢の判定できる者十九名
`
うち十三名が辰年
`
すなわち当年満二十歳になる者であるから
`
大部分が徴兵逃れ
を期待しての参加であったとみてよい

八三名の出身地をみる

`
かなりの広範囲に及んでいることがわかる

別掲地図参照


この史料よりさらにさかのぼり
`
明治二五年外字〜同二八年ま
でを記した

開運祭人名手扣


第二表参照

は特に神輿供奉
者とはしてないが
`
やはり年齢を明記してある者の大部分がそ
の年に満二十歳となる者であること
`
またたとえば二六年は酉
年の者が二十歳にあたるが
`

戌明年

という書き込みがあ

`
十九歳の者が一年早く祈祷をかけていると想像されること
などから
`
徴兵逃れを期待しての祈祷であ
ったとみて間違いな


特に明治二八年の人数が倍増していることは
`
日清戦争に
おいても庶民の真情がどこにあったかを示すひとつの証拠とな
ろう
第2表 開運祭に祈祷を依頼した者の生年と人数
  生年
 祈願年

明4






10

11

12

13


明治25年2
24
1
1643
  268
23
13812679
  272
68
43311495
  281213
146
831
17191


(前回丑1)

 このように龍爪さんは庶民の願望に添う形で発展していくが
`
軍隊との関係がそのために悪化するようなことはなか
ったらし


日露戦争が始まるや
`
社務所からは静岡の第三四連隊に神
符を贈
って感謝されているし
`
軍人もしばしば登拝している

第一次大戦が終了した大正八年には

戦争終詰后一反幟納メ致
スノ願ヲ掛ケ

ていた三四連隊の軍人が
`
幟の形を問い合わせ
る葉書を寄越している

少なくとも龍爪さんに関してはかなり
公然と徴兵逃れの神としての名がひろま
っていながら
`
それを
禁圧するようた施策がい
っさいなか
ったらしいことは
`
大変興
味のある問題である

 しかし
`
さすがに満州事変の始ま
った頃からは徴兵逃れを表

って祈願することはできなくな
ったという

地元の平山部落
では
`
毎年徴兵検査前におばあさん達が中心にな
って山上の拝
殿でお籠りをした

部落内の適齢者が兵隊にとられないように
という祈願であ
ったが
`
これをやらなくな
ったのがち
ょうどそ
の頃であ
ったという
平山の茶店で売られた
 玉除けようかんのノボリ

玉除けようかんのノボリ
 その後
`
日中戦争の長期化とともに昭和十四年にな
って現役
兵をとるについてのクジ引きが廃止されると

注五


`
龍爪さ
んは無事帰還を祈る弾丸除け一色にな
っていく

昭和十九年は
稀にみる参拝者の多い年で
`
大祭日の賽銭合計が四二六円余
`
おひねりの米が合わせて三俵余にな
ったという

注六



その
ころ
`
社務所で頒けた弾丸除けの護符は
`
神名を刷
った紙片を
小さくたたんで金紙や銀紙に包んだものだが
`
その用紙は神前
で用いた幣束の紙を使うことになっており
`
参拝者が多すぎて
足りなくたると臨時祭を行なって紙を増やしたという

例祭日
の雑踏ぶりは今でも語り草であるが
`
平日にも留守家族の参拝
が多く
`
登山口の茶店では

玉除け羊かん

と銘う
った蒸し羊
かんを売り出したものである
 しかし
`
ひとたび戦いが敗戦に終るや
`
手のひらをかえすよ
うに参拝者が激減した

もちろん
`
中には自分の生還は龍爪さ
んのお蔭であると信じ
`
今でもお礼参りを欠かさぬ人がいるが
`
イクサ神としての印象が強かっただけ
`
その衰弊ぶりも強烈で
あった

今から十年ほど前に社殿はす
っかり破壊され
`
平山
の神官家の御信所に住時を偲ぶばかりである

 と
 め
 龍爪信仰を特徴づける玉除け
・徴兵逃れの信仰は
`
農兵の組
織化から徴兵制の施行を経て発展する日本の近代兵制と深いつ
ながりをも
っていた

戦時における玉除け
`
平時における徴兵
逃れという大きな起伏を示しつつ展開した龍爪さん百年の歴史

`
近代日本の戦争の歴史と表裏一体をなすものであるととも

`
戦争に対する庶民の切ない感情を綴ったものでもある


`
こうした玉除け信仰を
`
信仰の類型の一つとして抽象化す
れば
`
やはり一種の流行神的な存在として位置づけることがで
きる

思いがけず時流に乗った龍爪さんは
`
敗戦に続く平和国
家建設の中にその意味を全く失い
`
逆に手ひどいし
っぺ返しを

ったのである
 なお
`
龍爪さんについては
`
自然崇拝から始ま
った農業神と
しての性格を基盤とする
`

っと根深い信仰があ
った

本稿で

`
紙幅の関係からそのことについては詳述できなかったので
`
地方の一霊山としての龍爪さんの全容の解明については
`
他日
を期すことにする


県立静岡高等学校教諭