龍爪山は、修験道の山であった。山に鎮まる神霊を祀る神社と、死んだ人の霊を弔う寺とが混在していた。江戸時代、龍爪山の山伏が、疱瘡除けや虫送りなど、庶民の生活や人生で出会うさまざまな災厄に、護摩焚きや加持祈祷の呪法で、除災を行っていた。この呪法の験を高めるために、山中で修業を積んだ。その修験者の法力を元に、信者を山上の信仰世界に導いてきた。除災祈願は、専ら、社僧と呼ばれた修験者(僧侶)が、担ってきた。浅間神社でも、別当寺の惣持院の僧が、いろいろの勤めを果たしていた。また、別雷神社の別当寺であった龍相山雷電寺は、当山派修験に属していた。この寺の山号は「リュウソウザン」と読み、龍爪山と繋がると想定してよいであろう。このことは、別当寺の僧侶達が、龍爪山で修業を積む、当山派の修験者であったことが示唆されてくる。当山派は、真言宗の修験者であった。
 龍爪山修験道の形成には、熊野や高野山に繋がる修験道文化の伝播があったことが、類推されてくる。静岡市安東にある熊野神社は、熊野三所権現と呼ばれ、社僧がたくさんいたと伝える。熊野神領の荘園(北安東荘、安東荘)を治める中心に、勧請されてきたことを示している。社殿の背後には、龍爪山が聳える景観を現代に伝えている。さらに、熊野十二所権現が浅畑沼近くにあった。沼の水域を越した龍爪山が、熊野修験者の山中修業の場になっていたであろう。また、熊野信仰といえば、山中他界の霊地として知られ、死者の霊が昇化していく霊場であった。道白平の五輪塔は、室町時代に比定されており、追善供養の場であった事を示している。なお、熊野修験は、天台宗(本山派)の修験であった。そして、熊野修験は、南北朝期を境に衰退し、替わって、高野山の真言密教の修験者が各地の霊山へ入りこんできた。麻機の北には弘法大師の伝説が伝わり、ここが、高野聖の修業の場になっていたと思われる。今は廃寺となっている光明寺や霊仙寺は、かつて、浅間神社の社僧の奥の院であったという(『麻機誌』)。瀧の多いこの地で精進潔斎し、山中の秘所へ修業に入ったものといえよう。
牛妻ホーエンサン(静岡市牛妻望月家アルバムより)
牛妻ホーエンサン(静岡市牛妻望月家アルバムより)
 そんな修業の場の跡を留めているのが、牛妻の森谷沢の谷奥に位置する、行翁山である。三方を谷に囲まれた感じの秘所で、奥の院を祀る尾根筋が、龍爪山へ続く道となっている。お堂には、阿弥陀如来像や役の行者像などが祀られている。そして、東側の斜面には、岩窟が穿たれていて、中に、南無阿弥陀仏の六字名号が逆さ文字で刻まれている、石碑が立っている。これを、地元の人は、「札取り石」と呼んでいる。かつては、この「札取り石」に墨をぬって、各戸分の枚数の札を刷って、配ったという。修業の場であった岩窟の、霊験あらたかなることを祈願しての「札取り石」であったことがわかる。平集落には、ホーエンサンと呼ばれた修験者が戦前までいて、加持祈祷をしていたという。行翁山の祭りは、毎年、3月中ごろに、森谷沢と平の人々によって受け継がれている。
 なお、この平集落には、江戸時代の造営と見られる、一字一石経の経塚があった。法華経の写経と推定され、滅罪の功徳を信じて、山の入り口に造営されてきたものといえよう。このことは、江戸時代を通じて、この奥山一帯に、高野山をまねた死者供養の場があり、南無阿弥陀仏の念仏に、極楽浄土を祈る信仰が濃密にあったことを、示している。そして、それは、ゴーリンという地名に残る山岳寺院の追善供養の場で加持祈祷され、浄化された霊が、山上に昇っていくと考えられていた。
 そして、この谷には、木を伐ると死ぬという恐い場所を「マジ(魔地)」という言葉で伝えている。「おおぐな」というところでは、冬の快晴の日に、崖の崩れるような音が突然したといい、この音を聞いた人は、天狗が出たと逃げ帰ったと伝える(『しずなか風土記』)。霊場が荒らされることを防ぐ話といえよう。このように、高野山の修験道文化が、龍爪山の谷に息づいていたのである。
 龍爪山を越えて安倍奥へと尾根道を辿ると野田平の集落に至る。明治生まれのお婆さんの伝承に、高野聖の唱導があった。それは、次のようなものであった。

 高野の山の山中に、欄干橋が2つある。その橋下の泉水に、鮒や鯉があまたいる念仏申すその人は、鮒や鯉やと見て通る念仏申さぬその人は、ジャイジャ(大蛇)と見えて通れねい。

 仏道の念仏の有り難さに誘う詞章である。
 もう1つは、
 うしどう丸が、おめかけさんをおいた。ひをやって、一人で昼寝をしていると、頭の毛が蛇になって喧嘩をした。それを見て高野の山へ行った。

というものである。こうした山間の地へ、時代は限定できないが、高野聖の回国があった痕跡と言えよう。このことは、龍爪山の修験文化に高野聖が関わっていたことを示唆している。
 今1つ、念仏に関した芸能に古風な盆踊りがある。龍爪山の背後の山筋をたどると、俵峯、平野、有東木という集落があり、これらの村では古くから祖霊を迎え、そして鎮送する念仏踊りを基調にした古風な盆踊りが伝承されていた。特に、平野にはお盆の御霊祭の際、念仏の詠唱から始まったとする口碑が伝えられていた。その時代は鎌倉時代という。この伝播時期は確定できないが、この山筋にそって念仏勧進の痕跡ががあったことを指摘できよう。このことは、龍爪山を中心とする山塊を浄土とする信仰が、中世の時代に存在していたことを考えさせてくれる。高野山の霊場の地方版が形成されていたといえよう。

長刀踊り(静岡市有東木盆踊り)
長刀踊り(静岡市有東木盆踊り)
 さらに、盆踊りの芸能として注目されるものに、長刀踊りがある。道行きや送り出しの際の、呪術的意味を持つ踊りであった。長刀を交差させたり、打ちあてる仕草は、魔を払う修験の術を芸能化したものといえる。龍爪山の背後の集落に、意外にも中世の歴史残像が埋もれているのである。
 今少し、長刀踊りの伝播について推察してみると、山伏の悪魔払いの芸能に、長刀を打合せる長刀舞いがある。長刀を互いに打合せることが、強力な呪術であったことを示している芸能である。平野では、道行きの時、大長刀を持った人が2人、行列の先頭に立ち、長刀を交差させていたという伝承がある。悪魔払いの所作を象徴していたといえよう。
 龍爪山の背後の山村に、長刀踊りや大長刀を用いた鎮送儀礼が伝えられていたことは、念仏踊りに、修験系の芸能が合わさってきたことを示している。すなわち、中世の時代の盆踊りは、呪術性を発揮する山伏のもちこんだ修験道文化とも密接に関わっていたと
えるのである。龍爪山の修験道文化の謎を解く資料として、長刀踊りが有力な鍵を握っているのである。このことは、龍爪山を拠点とした山伏の活躍とその修験道文化の伝播を、奥山の山村に十分想定してもよいといえよう。