第3節 鉄砲祭りの民俗
 龍爪山の祭りを特色づけてきたのが、鉄砲祭りである。古くは、3月17日(現在は、4月17日)に行われていた。『駿河記』には、「此月西東の山家より鉄砲数百挺持出で打鳴す」とある。『駿府風土記』にも、「在之猟師鉄砲百挺をつるへ打」とあり、祭りの日には、大きな鉄砲の音が、山々にこだましていたことが偲ばれてくる。戦前までの伝承では、的を前方に12本、閏年の時は13本立て、その的を狙って撃ったという。また、龍爪山に出掛けなかった人は、自分の村内で、鉄砲を空に向けて撃ったという。山で狩りを仕事としていた猟師たちに、絶大なる信心が寄せられてきた、龍爪山の鉄砲祭りであった。その利益は、猟の際のいろいろな事故を防いでくれると、信じられていた。
鉄砲祭りの様子(日本博覧図より)
鉄砲祭りの様子(日本博覧図より)
 鉄砲は、戦国時代になって普及してきた新式の武器であった。『言継卿記』には、弘治2年11月29日の条に、「鉄砲之鳥」、弘治3年正月9日の条に、「今日鉄砲四張にて出、鶴一、鴈十二、鴨三、射之云々」とあり、今川義元が鉄砲を使って、鳥猟をして、その獲物を、下向した京都の公家に贈った記録である。また、『武徳編年集成』慶長16年8月12日の条には、「早朝ニ神君浅間山ニ至リ目当ヲ二町余ニ置テ躬カラ火砲ヲ発シ玉フ。釣ノ星ニ玉アタル事五箇度、近臣モ又火銃ヲ発スト雖、的ニ外ル。時ニ駿城櫓ノ上ニ、鳶二羽居所ヲ躬ラ二羽ヲ打落シ玉フ。残ル一羽モ足ヲ打切ラレナガラ飛去。又殆ンド間数五十間ニ及ブ。諸人甚驚嘆ス」とあり、28日にも、「浅畑ニ出、御火砲ヲ以テ、鴨二羽ヲ連ネ打落シ玉フ」とある。このように、駿府の君主家康が、鉄砲を使って、その評判をとっていたのである。その鉄砲どころとしての伝統は、江戸時代を通じて受け継がれていた。有度山周辺の旗本領の在家武家の間では、砲術家からの伝授など、鉄砲の訓練が行われていたことが、窺える。後年、そうした所は花火所にもなって、龍勢花火の技術を伝承してきた。
 以上の事柄が、直接的に龍爪山の鉄砲祭りの起源に繋がるものではないが、鉄砲所としての背景があったことは、示されよう。江戸時代の平和の中で、鉄砲は猟師や農民の威し鉄砲として山の中で、専ら、実用的に使われるようになり、武家の鉄砲は、町の中で狼煙花火へと変化し、社寺の祭礼に奉納されるようになってきた。火薬の爆発音が、人々の耳目を奪ってきた時代であった。龍爪山の祭りに、鉄砲発射を取り入れてきたのも、祭りのアトラクションとして、山の神に奉納されてきたことが考えられる。徳川家康が遠くの的を撃ち抜いた故事に従って、鉄砲で的を撃ち抜く事が、競技になって競われてきたといえよう。それはまた、「鉄砲の発する大きな音が魔除けとしての意味をもっていた」(中村羊一郎「龍爪山信仰の変遷」)のである。なお、安倍奥の山間部では、火薬の元となる煙硝が作られていた。鉄砲技術の向上を競い合う試しの場として、鉄砲祭りが江戸時代には広く喧伝されていたのである。
 そして、近代の時代になると、出征兵士の無事を祈る「玉除け信仰」の利益が、流行してきた。「玉除け」の鉄砲祭りは、的になかなか当たらないところからきた連想なのだろうか。すなわち、鉄砲の的を、人に置き換えて、「敵の玉に、当たらなければいいがなあ」という思いで、出征兵士の無事を重ね合わせていたということである。玉の当たった的が、災厄を避ける呪符に利用されたように、今度は、その逆の呪符が考えだされてきたのであった。それが、「龍爪山矢玉除御守」であった。日清戦争の出征兵士の元に贈られており、その兵士は、牛肉を食べないで、龍爪山信仰を信心している旨の手紙を故郷に送ってきている。鉄砲祭りで使った銃をもって狩りにいけば、「人をそこなうことがない」といわれていた(『千代田誌』)。龍爪山の玉除け信仰は、「敵の玉に、そこなわれない」という、鉄砲祭りの逆説から、派生してきたものといえよう。戦争を災厄と考えた、庶民の偽らざる願いは、無事の帰還であった。近代戦争の中で、個人としての身の安全を、1枚のお守りに委ねて、龍爪山参りは続けられてきた。国のためという「公」の論理が最優先した時代風潮の中の、「私」の願いであった。龍爪山は、江戸時代を通じて、修験道の山伏によって、もろもろの困り事の救済を、加持祈祷の力ではかってきたところであった。明治初期の修験道廃止になっても、鉄砲祭りにことよせた救済儀礼が、「矢玉除御守」の呪符であったといえよう。戦争を身に降りかかる、時代の災厄と考えた元で、修験道にすがることが行われてきたのであった。
龍爪山の「玉除け信仰」は、形をかえて生き延びた修験道文化として、捉えられよう。