第7節 街角からの龍爪山
 太平洋戦争が終わると、龍爪山は荒廃の一途をたどることになった。龍爪街道の人の波は、ばったりととだえ、社殿も荒廃した。山は、信仰の力と痕跡をすっかり失ってしまい、人工造林の象徴のような山になってしまった。
 山に歴史ありといわれるが、今こそ静岡、清水市民の生活を取り囲んできた龍爪山の歴史が問いなおされるべき時節である。暮らしの全景をかたち作る龍爪山と、私達は、知らず知らずの間に、交流し、その影響を受けているのである。龍爪山の存在を生活意識の中に、どっかりと据えてみる作業が大事といえよう。目をとじて、龍爪山の山の姿が思い浮かんでくるまで、龍爪山を見つめてみることである。
 どんなまちかどからも見える龍爪山は、静岡・清水のシンボル的山としてそびえている。山梨稲川の漢詩に、
 龍爪山
外字外字長轡霄漢辺
誰攀石路俯高巓
雷声忽震中峰樹
雲気常封小洞天
円父噴烟神蟒殪
巨霊抜木大風顚
荒陬自古多奇譎
青史誰徴遺老伝

とある。また、江崎惇の『蛇捕り宇一譚』には、「翌日は龍爪山の奥深くへ踏入った。蝮を捕らなければならないのだ。」という一節がある。このように、龍爪山は、想像力を刺激する山として、窓の外にすぐ見える山であった。
 龍爪山の美しい姿に、夕景がある。刻々と変わる雲の色の変化に、かつての人々は、浄土を見、亡き人の霊をしのぶ思いを引き出していたのかもしれない。死んだ人の霊が山に登っていくという信仰が信じられていた時代、山は、単なる土の高まりではなかった。山を通して死を日常的に感ずるところであったといえよう。生と死、死者の魂が山に登り、やがて、祖霊となり、山を支配する山の神になっていくという、魂の行き場所を身近な山を通して、具体的に実感していたのである。山を魂のふるさととして眺めるという、山への対し方が、心の癒しになっていた事が考えられる。
 そうした、山中他界の信仰が、自然の循環、人生の循環、そして、時間の循環などを考えさせ、龍爪山のある暮らしが、生活の安定感につながってきた歴史があったのである。その意味で龍爪山は、時間のゆとり、生きるゆとり、心のゆとりをもたらす山として、そびえてきたといえよう。
 山岳信仰は、神道の世界観や仏教の世界観など、さまざまな意味づけが混りあわされて今日に至っている。龍爪山修験の実態は、まだまだ不明の部分だらけである。明治5年、修験道は廃止されたが、その伝統は、形を変えながらも今も生きている。戦前まで、牛妻ではホーエンサンによる里修験が息づいて、行翁山の祭りが行われ、それは、今日まで受け継がれている。山の信仰は、ほそぼそと生きているのである。
 龍爪山の歴史の謎解きは、今、始まったばかりである。この謎解きの視点を考える時、五来重氏の仏教民俗学の解釈が大いに参考になる。『日本人の地獄と極楽』には、「山岳信仰と龍の関係には、龍か山の水源信仰にともなう水神の化身として表象される場合と、山にとどまる怨霊または荒魂の表象である場合とがある。山中地獄の龍は後者である。」とあり、龍爪山の龍伝承の出どころを考える際、大いに参考になるところである。沼のばあさんの伝承も「龍を煩悩の表象としたともかんがえられ、煩悩を克服することができずに死んで、怨霊の龍になる」という解釈で理解されてくる。龍爪山をめぐる経塚造営も、法華経に滅罪の力があると信じられてきた、「地獄救済の信仰」のためであったことが理解されてくる。
 以上、龍爪山の山岳信仰の変遷を通して、龍爪山が念仏浄土の山としてあったということは、是非とも押えておきたいことがらである。
 浅畑沼を境としたあの世とこの世、その向こう側の龍爪山の奥まった谷に地獄があり、滅罪し、山頂の浄土にいたるという仏教空間を明確にイメージしていた時代があったということは、提示されよう。高野聖の活躍が、龍爪山を仏教の山にしてきたと考えられる。
 このように、龍爪山の眺め方に、歴史的な再現イメージを重ねてみると、山の景色にさまざまな感情が投影され、はねかえってくる。雷の通う路に、神の移動と龍の姿を思い浮かべて、龍爪山を崇拝した古代人、龍爪山に浄土を見て、念仏をとなえながら死者供養に道白平の霊場に分け入った中世の人、龍爪山伏の加持祈祷にすがった近世の人、そして、玉除けの札をとりに龍爪山に登った人など、いろいろな人が龍爪山と関わってきたことがわかってくる。そして、現代、私達ひとりひとりは、龍爪山とどう関わろうとしているのか、今日も街角から龍爪山がのぞいている。