第4節 山上の霊場開発
 権現とは、仏が神の形を仮のすがたとしてこの世に現われることを指している言葉である。龍爪山の二峰は、山そのものに文珠岳、薬師岳の仏の名が付けられており、奥宮の本地仏として、空間配置されて、命名されてきたことが窺える。このように、山名が仏教化された山岳であることを端的に示しているにもかかわらず、龍爪山からは、山岳寺院の痕跡が跡形もなく消え去ってしまっている。
 これは、先の縁起類の分析からも、江戸時代の龍爪山支配が神道系に傾いてきたことと、明治時代初期の廃仏毀釈の影響をもろに受けてきたためといえよう。山岳信仰と仏教が習合した形で修験道が起こってくるが、中世の龍爪山においても、修験者による霊場の開発が当然、予想されるところである。
 古代の終わり頃から、山岳で修業する仏教の僧がふえてきて、やがて、最澄の比叡山の天台宗と空海の高野山の真言宗にまとめられてきた。山中での「法華経」の読経が主な修業であった。こうして、中世の時代には、吉野の金峰山と紀州の熊野が、修験道の拠点となって、山岳修験が信仰世界を風靡してきたのであった。山に分け入って、祈ることが心の癒しになった時代であった。
 古代、山はあらぶる神霊のすみかとして、怖れ、崇められ、遠くから遙拝するものであった。それが、そうした神霊のこもる場で修行を積めば、加持祈祷や験力が高まるとされ、山中に修業の場が作られてきた。麓山での神迎えから、奥山での神霊との遭遇を積極的に求めたものであった。山との関わりのおおきな転換期であった。そして、この時代は生活のあらゆる場面で、加持祈祷に頼る事が行われ、修験者が政治、経済、社会において大きな影響力を持っていた。
 それでは、龍爪山はいつ頃から修験の場として開発が行われてきたのだろうか。龍爪山をめぐる山岳修業の痕跡を留めるのが、静岡市牛妻、森谷沢の行翁山と、北沼上則沢の道白平である。行翁山における伝承は、『駿河龍爪山由来』に収められている「行翁居士履の事」の中に、まとめられている。行翁が槇部に語る中に「時節を待ちて、この龍爪山を開き、大伽藍を建立し、仏法流布の大道場となし、衆生を済度せんとおもえども、未だ時至らず」とある。龍爪山を仏教の山にしようとする意欲を語っているのである。さらに、「惜しい哉この龍爪山は、本朝無双の霊山なり。いかでか吾この山を捨つる事を得んや。未来永々のうち、またこの山にたち帰り、仏法流布の霊地となし、衆生を済度すべし。」とある。中世の時代、龍爪山に山岳寺院を開いて、仏教の山にしようと目論んでいたことが語られているのである。
 この行翁伝承が中世的な歴史を背景とする根拠に、「時節を待ちて旦那をまうけ」の一節があげられよう。中世における熊野信仰の経済的基盤は、信者である旦那からの寄進や参詣にささえられていた。旦那の獲得が、重要な利権になっていた時代であった。「旦那をまうけ」は、こうした時代背景を如実に物語るものといえよう。行翁伝承が中世の時代に成立したものと推定され、龍爪山の仏教化の始まりを示す、縁起説話として受け継がれてきたもと考えられる。
 行翁山のある所から、沢をしばらく登った山腹に、ゴウリンと呼ばれるところが伝えられ、かつて、寺があったという。その場所から、宝篋印塔の部分が採取され、福寿院に安置されている。また、寺の鐘が山津波によって押し出され、鐘が鳴りながら下った沢を、鳴沢といったと伝える。行翁伝説は、この山岳寺院となんらかの関係があったものといえよう。この沢にそった山道に、イグチザカと呼ぶ地名が伝承されている。そこは、あまりの急坂で、「牛がイグチをかいたとこだ」と、地元の人は伝えている。山岳寺院への輸送路であったことを示し、坂に強い牛が活躍していたことを反映している伝承といえよう。
 そして、このことは、龍爪山の山岳仏教が西側の谷筋から開発されてきたことを示唆するものである。牛妻に残る牛になって通ったという僧侶、祖益の物語は、仏道の道を説く説話である。それとともに、道白平と丹野を東西に結ぶ山道のルートがあって、物資輸送が牛を使って行われていたことを考えてよいであろう。すなわち、東西方向の空間配置で龍爪山の仏教化が、中世のある時期進められていたことが、牛の道の再現によって想定されてくる。

行翁山の岩窟
行翁像の石の祠
行翁像の石の祠
静岡市牛妻森谷沢
静岡市牛妻森谷沢

 行翁山と道白平は、若山背後の鞍部を通る峠越えの山道で結ばれていたと思われる。その尾根を越えた東、則沢側の谷に地獄沢と呼ばれる地名が伝承されている。修行の場が、谷間を見下ろす山腹に立地していることが指摘される。ここに、龍爪山の霊場開発を見る場合、西の安倍川側から山に分け入った山岳修業があったことを知ることができる。行翁伝説は、中世における修験者の痕跡を語るものである。しかし、現在の行翁山には、岩窟が唯一中世的なもので、石碑、堂宇の中の仏像、奉納品は近世のものである。なお、行翁伝説には、龍爪山と語られているが、中世的な説話だから、その時代から龍爪山という山名がすでに行われていたという、証拠にはならない。「本朝無双の霊山」という強いおもい入れが説話制作者にあり、中世伝承を元にして、その制作は近世であったと考えられるからである。龍爪山と山名が確立した時代は、近世以降である。
 以上のように、龍爪山を西からみた霊場開発がある一方、南側から見た霊場開発も当然行われていたといえよう。すなわち、浅間神社に別当寺の惣持院が併設されていたことに象徴されるように、神仏習合の時代は、加持祈祷の全盛時代であった。山岳信仰と仏教の融合が、神が宿る神聖な山で行われてきたのである。山岳修業をつみ、験力を高める修験道が中心になってきたのである。
 南の谷筋から見た龍爪山の仏教化は、熊野信仰との関わりの元で想定されてくる。中世における、確実な、仏教遺跡の資料が数多くあるわけではないが、龍爪山を浄土に想定した仏教空間が配置されていたことが、仮説されてくる。
 龍爪山から南に下る幾筋かの山脚の麓山には、それぞれ尾根筋にそって古墳があり、かなり古くからの墓域になっていた。麓山が、祖霊のこもる山、すなわち、死んだ人の霊が祖霊になって、登って行くところと考えられていた。こうした、古代における山岳信仰が元になって、死後の極楽浄土を、実際の身近な山に見立てる浄土思想が重なってきた。

岩屋お中に納められた5輪塔
岩屋お中に納められた5輪塔
道白平の石仏
道白平の石仏
静 岡 市 則 沢

 『千代田誌』には、安本収氏による道白平の岩窟にある五輪塔と則沢の庚申山から採取された鏡が報告されている。五輪塔の設置は、死者の追善供養が考えられ、室町時代には、道白平が積善をつむ霊場であったことが、窺える。鏡は、鎌倉時代の菊花双雀鏡であるところから、経塚の存在が推定される。このことは、則沢の奥の谷が、死後の極楽往生を祈る霊場として中世の時代には、開発が始まっていたといえよう。経塚は、写経した経を埋めて、極楽往生を祈る善行と考えられていた。そして、道白平から見下ろす谷が、地獄谷であった。ちょうど、若山の背後にあたる山陰である。
 以上のように、死者の霊を追善することによって、霊の浄化をはかり、山上の浄土に登らすことができると信じられていたのである。なお、行翁山の岩窟内に建てられた「南無阿弥陀仏」と逆さに彫られた札取り石、道白平の巨岩に彫られた「南無阿弥陀仏」は、後の時代のものであるが、往生を願ったものであり、江戸時代の埋経とされる一字一石経や一石多字経の伝統は、こうした中世の善行の歴史を引継ぐものといえよう。ここに、龍爪山の山上を浄土とし、若山背後の谷を地獄とし、その中間の山腹、道白平に追善供養の霊場があったという仏教空間が浮かびあがってくる。龍爪山においても、浄土思想の舞台化が行われていたといえよう。
 そして、中世の仏教空間として、浅畑沼の広い水域を忘れてはならないだろう。すでに、沼のばあさんの伝説の元が中世には出来上がっていて、それは、女人成仏を説く、法華経の功徳を広めるための説話であったといえよう。浅畑沼には、「りう」(龍)がすむと信じられていたのである。この水域を挟んで、龍爪山のある北側が、あの世の世界、南側がこの世の世界という境になっていたという想定である。沼の北側の山麓線の谷奥には、阿弥陀如来を本尊とする寺院が、信仰を集めていた地域であったことが、再現されてくる。法華経の功徳を信じる舞台装置として、中世の時代には、龍爪山と浅畑沼が、一体となって、各種説話が麻機や沼上周辺にちりばめられてきたといえよう。そういう説話が、「龍爪山縁起」に取り込まれてきたことが考えられる。龍爪山から流れ出る水が、善人には薬となり、罪人には毒となるという話は、浄土に入る選別を示している。ここに、中世の時代には、龍爪山が死者の山としてあおがれ、その死者の霊を追善供養する、念仏浄土の山として開発されてきたのではないかということが、提示されてくる。浅間神社や別雷神社などに、別当寺が併設されてくることは、山岳修業で呪術の力を高める必要があったからといえる。この神仏習合によって、龍爪山が仏道の実践の場になってきたのである。龍爪山の山麓に、瀧が多いことも信仰空間を形成してきた要因にあげられよう。その意味から、別当寺の僧侶や修験者の山岳修業が、龍爪山で行われてきたことが、十分、想定されてくる。「龍相山雷電寺」の山号の成立時期が、留意されてくる。龍爪山の山名起源につながる「龍相山」かもしれないということである。とすると、リュウソウサンという呼び方が、すでに、中世において行われていたのだろうか。
 中世、龍爪山において仏道の山岳修業がおこなわれ、五来重氏のいう「霊魂昇華」が、信じられていたといえよう。これは、
まさに、熊野修験の静岡への伝播として捉えられよう。中世、北安東荘は、熊野の神領であった。熊野神社が勧請され、その社
ジュウニソウ
殿の背後には、龍爪山がそびえている。十 二 社という川が、現在も流れている。これは、熊野十二所権現を示している。浅畑沼の南側に、このように熊野信仰の地方拠点が形成されていたのである。上足洗には米良文書に出てくる宝仙坊・身洗ばが、小字地名「ほふせんぼ」、「身洗戸」として残っている。龍爪山と熊野神社との繋がりは、謎解きのキーワードとして提示される。
 承知のように、熊野は、死者の霊が浄化され、山上に昇華してこもる山とされ、山中他界観の中心地であった。古代末期から中世の時代には、熊野詣が社寺参詣のブームとなっていた。龍爪山においても、熊野信仰の地方伝播のなかで、山中他界の場として、熊野修験の活躍があったといえよう。
 中世の龍爪山が、熊野信仰の地方伝播とともに、浅畑沼越しに聳える浄土としてあったということである。その浄土への参詣が、船を用いた道行きであったことが、かんがえられる。麻機に伝承されるコエツキ石や鈴石は、境を示す境界の名残ともとれよう。熊野神社、熊野十二所権現と参詣し、船で浅畑沼を渡り、龍爪山の麓の瀧で垢離をとり、山腹の霊場へ登っていくという道筋が考えられる。このように、熊野信仰のもとで、龍爪山の霊場化が行われ、念仏浄土の山が作られてきたのである。