第2節 龍爪山縁起をめぐって
 縁起とは、ものごとの起こりを示したもので、龍爪山の江戸時代における縁起類には、「龍爪山縁起」と称されるものと、「龍爪山開闢えんぎ」と称されるものが伝わっている。縁起類の制作目的は、社寺のご利益の宣伝普及に尽きる。人々の寺社参りを促すためのものとして、大量に刷りものにして、かつては配られたものと思われる。
 最初に、「龍爪山縁起」をみてみると、『麻機誌』に掲載されているものがある。主な部分を引用してみると、

 是の駿河の国の庵原郡龍爪山志久礼の峰の御社に鎮座ますは、大己貴・少彦名の二大神にましまして、その神徳の広く大きなることは、あまねく世間の人の知有ことなれど、分て霊妙なるこの神等を斎祭奉れるをりとは知らざるとほき国々の人々までも、天下泰く平らに、宝詐延長、征夷大将軍国主領主の武運長く久く、弓鉄砲の矢玉除け・田畑の新墾開発・五穀豊熟・菜果茶桑拷楮等の繁茂或は早魃・洪水・荒風・高波・蝗・矢火・盗難を避け、諸の疾病を癒させ給はらむ事を祈祷もうす。中にも狂気者は祈祷をこひて灼然き霊験を蒙ることおほかり(中略)世間に四民といふ士農工商は更なり、別して医業人、薬舎、酒造家等は、その業に誤つことのなかるべく、殊に信心をこらして、祈願奉べき大神に坐ますを、弘くしらさむとてかくなむ。

と、ある。神道に通じた者の読みと文体をみせており、国学が盛んになってきた時代風潮を反映させての、龍爪山縁起であるといえよう。江戸時代の終わり頃に作られたものと思われる。
 「龍爪山縁起」には、これとは別に仏教的色彩に強く彩られたものが先行していた。飯塚伝太郎氏の『静岡市の史話と伝説』には、龍爪山縁起がわかりやすくまとめられており、それによると、

 推古天皇の28年(620)4月、龍爪山を黒雲が巻くこと37日(21日)その間、ふしぎよい香りが周囲二・三里内に薫った。このとき梵字(インド文字)の大般若経六百巻が龍爪山に降った。経の落ちた処を般若平と名付けた。其の内の二百巻を尽未来迄(永久に)残すため、般若が岳を10メートル掘って、石の唐櫃に入れて納めたとも、また、乱世の頃、他国に盗まれたともいい、残りの二百巻は、山の南麓、瀬名村の戸倉大明神の森に納めて置いた。
 貞享年中(1684〜88)そのお経を拝見すると、黄色の紙に梵字で書いてあったその容器は丈夫にこしらえた朱塗りの函に足を付け、がっしり金物を打ち二箱有った箱の内に守護神といわれる丈30センチほどの赤い蛇が、二箱共に一匹づつとぐろを巻いて居って、箱の蓋をあけると、お経の下に隠れた。この蛇の居るのをうるさく思ってか、雨にぬれるもかまわず、箱を社殿の外に置いた。
 このように尊いお山なので、諸天神が常に守護を加え、天龍八部が平常この山に集まってくるので、不断雲が峰を巻き、日々時雨がふらぬことなく、それ故にこの山を時雨山と申した。また、龍爪山と名付けたのは、天龍が多数この山に集まるからして、折々龍の爪が落ちている。「二つ又」という所に、それがあるが、そこはたやすく人の行き通う場所では無く、権現の社から一里ばかり離れた高嶺で、まことに仙人の住処と申すべきところである。
 けれどもこの山から流れ出る水は、善人のためには長生きの薬となり、宿業(罪)の深い人には毒となって、「こいばつ」という病気になる。これに罹ると足が1メートル位ふとり、一生なおらない。また「四ツ足こい」という、手足共に同じようにふくれるのもあり、また「身こい」といって五体共に付くのもある。龍爪山の周囲三里ほどの内にこの病気があり、これに罹ると治療の方法がない。他国にあまりない奇病だまた、一説には龍爪山の守護神のなかに毒龍が有って、その毒気に当たるとこの病気に罹るのだ共いう。(龍爪山縁起から)

とある。これに、同内容のものとして、「駿河龍爪山由来」があり、奥田賢山氏校注の本となっている。それによると、文化13に写本されたものであることがわかり、すでに、それ以前に記されていたといえよう。「龍爪山縁起」を虚説として批判した者への反論として記されてきたことが窺える。このことは、江戸時代後半の社会状況を反映しているといえ、これについては、奥田氏が指摘されているように、国学者の批判に対する仏教界側の反批判の図式として捉えることができる。「龍爪山縁起」が、歴史批判されたという時代状況があったということである。
 そのことは、逆に、この「龍爪山縁起」が江戸時代を通じて、広く、人口に膾炙していて、龍爪山を仏教説話で彩っていたのである。

奥田賢山氏蔵本∧駿河龍爪山由来∨
奥田賢山氏蔵本(駿河龍爪山由来)
龍爪山開白ゑんぎの一部
龍爪山開白ゑんぎの一部

 最後に、奥田賢山氏の「駿河龍爪山由来」にも紹介されている「龍爪山開白えんぎ」がある。駿河古文書会の中村典夫氏が翻刻したものを利用させていただいた。

 駿州庵原之郡樽野上村武田甚右衛門子に、兄に左次右衛門、弟に権兵衛というもの有り。彼権兵衛25之年、 拾年以前、かのとの末の年正月17日に、龍爪山へ殺生に出我が眷属かのしし16匹つれて、遊びいる中にて、ししの額の白く、背筋同じくしらふさの如く成を、鉄砲にて打ちとむるそれによって、我、彼の者に乗り移る。心乱れて3年患うこと、我がなす業なり。
 この山に数多人くる。然りといえども、我がもりにさだむべきものなし。このものの生まるる月日よく、昼の四つ時生まれ、性は火性、位よきによって、我がもりにさだむべきと思い、我乗り移り、乱気して、いろいろ口ずさみ煩う。
 これをかのもの親悲しみ、1日に百度千度の垢離をかき、日本諸仏神に、是非、平癒と祈誓すを、不憫とおもい、我いにしえより通力自在ふらぎの方便の口走り、樽の上村近在の凡夫どもに、かのものの知恵を知らせしむ。
 さるによって、これを聞くもの感嘆す。それより我が教えをもって、いやしきに社を建て、壱ケ年に壱度宛て2月17日にまつる。然りといえども、むさきにより、我また口ずさみ、「我をば誰とおもう。我これいにしえより、天下の守護神たり。初めは信長公天下持ちたるにより、これに付き添い打ち守る。信長公絶えて後、大坂秀吉公天下たり。大坂天守に住み、天下の守護神と成るといえども、天下乱れ破るべき時節来るによって、大坂秀頼公と家康公と一戦始まり大乱起こる。家康公御位よく、天下納むべき生まれ性たるにより、家康公に乗り移る。
 我、眷属を持つ事3万6千有り。かの眷属、家康公旗の上に皆ことごとく乗り移り、一戦せさすによって、数度の戦に勝利をえる。皆、我が力なり。大坂落城して後、駿河に飛び来たり、天下の守護神となり、駿府天守に住む。天下安穏長久に納むる事、我が業成り。然る所に火難でき、天守炎焼す。我が住むべき所なきにより、それより龍爪山へ飛び来たり、龍爪山亀井石に住所す。
 かのもりに我が教えをもって、龍爪山に社を建て、権現と号し、その身も龍爪山に来たり住所仕る。我を心信にまつるべし」と託宣す。さあるにおいては、祈り荷守り、何にても心にかのうべし。と教えるにより、正月17日、3月17、9月17日、壱年に三度宛て、湯花をささげまつるなり。我はこれ日本開闢より以来、刹那の間に三千界を駆くる身なれば、我が教えにまかせ、我を深く信心においては、この山において、子々孫々に至まで、現世においては、火難、水難、病難、災難逃れ、末繁盛にまかるべきなり。その外、一切の衆生、我を一心に信心し、我に歩みを運ぶともがらにおいては、現世にては、火難、水難、病難、災難逃れ、福自在、来世にては、安楽にあい守らんとなり。深く信心に信仰すべしすべしと云々。

 龍爪権現が自らの来歴を語る形の珍しい縁起となっている。寛文元年丑之正月吉日に、龍爪権現への参詣の隆盛を働きかけるために作られた縁起といえる。その奥書に、「右七人之名主衆この面に印を置くこと、浅間神宮へ罷り出で候時、案内者が申され候につき、かくの如くに候」とある。中河内、布沢村、黒川村、平山村の庄屋衆が署名捺印している。神道系の縁起であることが示されよう。
 以上のように、「龍爪山縁起」は、仏教系縁起と神道系縁起が作られてきたことがわかる。このことは、神仏習合の山であった龍爪山が、徐々に神道支配の勢力に取込まれてきたことと関係していよう。そこに、神道系の縁起が作られてきた背景があったと考えられる。仏教系の縁起が古い時代の伝承を取込みながら、今日の伝承の元になってきた事が示される。
 「龍爪山縁起」にある、龍爪山から流れ出る水が善人と罪人を選り分ける、薬にもなり毒にもなるのは、象徴的な仏教説話である。龍爪山が仏教の信仰観念で眺められていたことをたどる手掛かりが、「龍爪山縁起」には秘められているのである。