先に汎(総名)竜爪山から農耕の資材、農村生活の必要品を求めたと云つたが、それは単に竜南の地の人々ばかりではなかつ
まぐさば
た。数えれば、近郷近在39の村々が、かかわつたのである。いわゆる竜爪山秣 場の札山と云われる特殊な入会権である。
 これは慶安年間に、幕府が割賦をして山内に秣場を定め、平山、長尾、北沼上の三村を地元として、それを管理させたので
にゆうごう
ある。この秣場へ山札を持つて入山する村を、入  郷の村と云つた。入郷39ケ村は、毎年山年貢を地元村へ納め、地元の村はその中から必要経費を取つて、残りを地頭へ差し出したのである。
やまてまい
にゆうごう
 これには金納と物納とがあり、それぞれ山手銭、山手米と云つている。各入 郷の村には山札の数が決つており、山札には歩札と馬札とがあつた。この歩札と馬札の一枚の金額は、何故か各村によつて多少違つていた。大村は札数が多く、小村は札数が少なかつた。山札買い取りの額が、その村の山手銭、山手米と云うわけである。これは史料の「山手米銭員数帳」を参照していただきたい。
 この秣場とは、本来は牛馬の飼料にする草を刈り取る場所のことであるが、勿論牛馬の飼育は、当時の農村にとつては、重
まき
要な仕事であるが、秣場の刈り取りはそれに止まらず、それを堆肥として農作の重要な肥料とした。又小木を薪として、燃料に使用した。その他多目的に利用したのである。当時の農村の生活は、この秣場によつて支えられていた、と云う事もできる。のである。
○元禄裁許条々
 元禄2年に始まる争論は、入郷村の人々が大勢にて入山し、秣場以外の立木多数伐り取つた事から始まつた。総名竜爪山は秣場の外は、古林と私有地とに分かれており、古林は昔からの杉、檜の林で、地元3ケ村の管理下にあり、しかも官の許可なくしては伐り取る事は出来なかつた。それを27ケ村の村人達が──39ケ村の内、12ケ村はこの事件に加わらなかつた。抜け村と云つている。──合計七百本余の古林の木を、伐り取つてしまつたのである。
ひようじようしよ
 事件は地元3ケ村から、幕府評 定 所まで訴上された。評定所と云うのは、今の最高裁の如きもので、幕府の最高の訴訟裁決の機関である。
 裁判は先ず、この秣場が一般的な入会山か、地元村が管理権を持つ札山かと云う事で争われ、札山である事が確認された。そ
して秣場、古林、焼畑等の境界をはつきりさせ、入郷の村々はこの秣場の内に於いてのみ、鎌刈りにて木草を刈り取ること。そ
おの
のこぎり
れ以外に、鉈や、斧、 鋸 等は一切使用してはならない。
 一方地元村に於いては、秣場内はいつも草刈り可能な状態にして置くこと、地元の利殖をはかるような、林等の植え出しは絶体しないこと。又入郷村に於いては、古林には一切手をつけぬようにと云う事等が、言い渡された。
 最後に、札山を荒し、理不儘にも古林の木七百本余伐り取つた事に対する、刑罰が言い渡されている。それは訴えられた各
名主
村の庄屋1人ずつ入牢を命ぜられ、更に高百石について一貫文ずつの過料が課されるという、厳しいものであつた。
 そして厚紙の大きな竜爪山秣場の絵図が作製され、判決文を裏書きし、評定所各奉行が署名押印して、関係各村へ下付したのである。
ごんげん
 ここで付言するならば、この裏書きの裁許文の中に、竜爪権 現に関する記載があり、竜爪山の歴史を考える上で、誠に貴重な記録と云う事ができる。
 この元禄裁許文と絵図は、その後の山論のいつも拠り処となつた。常に元禄度御裁許と云う言葉が出て来るのである。これは明治の新政府になつても、裁判所の裁判に於いて、又引用されているのである。秣場争論ばかりか、例えば新川一件においてさえも、重要な典拠となつてくる。
仲裁者
示談
 元禄2年から77年たつた明和3年の争論は、裁判にまで至らず、扱い人が中に入つて済口となつた。何故争論になつたかと
どくえ
云うと、本来荒らして置くべき秣場に(いつでも草の刈り取りが可能な状態にしておく)近年毒荏が生い立ち、秣場を狭めて、思うように刈り取りが出来なくなつた。その事への不満からである。従つて苦情は入郷村々から出た。
毒在、楮等代金換算法
毒在、楮等代金換算法(文化13年)
(平山 望月敬師家蔵) <古文書 原文へ>
 毒在とは「あぶら桐」の実のことで、この実から良質の灯油がとれ、菜種油の代用として使用されたのである。その価格は文化13年項の相場は、米一俵と毒荏一俵とがほぼつり合い、有利な山中作物であつた。「近年入山の内へ、毒荏多分に生い立ち」と、自然生え出しのように記述されているが、実際は地元村が、その経済性によつて植え立て、秣場を狭めて行つたのである。
 従つて示談の仲介案は、秣場にかかる山手税の半額を地元で負担し、その代り毒荏の栽培は認めようと云う事であつた。また入郷の村々は、これまでの半額の山手税で、今まで同様の権利を行使出来ると云う事である。云うならば、現実に即応した仲介案という事が出来る。双方に異論はなく、済口となつた。
 明和3年から75年経つた天保12年、また争論となつた、それは明和の示談で、一応取り極めが成立したのであつたが、その傾向が徐々に進行して、ついに出入となつたのである。即ち秣場を焼畑に仕立て、そこへ毒荏やその他の有用植物を植えて、訴え方の言い分によれば、九部通り秣場を狭めたと言つている。
 そのような状態になつたので、入郷の村々は秣の刈り取りは勿論のこと、薪や、田畑の肥料にも事欠くようになつた。
おでんち
「御田地相続にかかわり難儀の旨」その他いろいろ申し立てたのである。御田地相続とは、田畑を作り続ける──ずつと耕作して行く──と云う事であるが、自作の田畑を御田地とはおかしい様だが、土地はお上のものと云つた考え方があつて、そのお上からの預りものの大切な土地、その耕作も思うにまかせぬと、相手方の非を強調しているのである。
 一方訴えられた地元4ケ村──南沼上村が、もと北沼上村と一村であつたことから、加えられて4ケ村となつた。──の云い
分は、入郷の村々は、地元村──平山村、北沼上村──だけの専用の焼畑へも勝手に立ち入り、尚無札にて斧やなたをもつて、
ちようじ
木品を伐り荒していると訴えている。即ち入山には、必ず山札を持参せねばならぬと云う事や、鎌使用の外は一切停 止と云う捉が、いつの間にかくずれていたのである。
 この地元の毒荏等を植えて、勝手に秣場を狭めた事と、入郷村々が禁止の斧やなたを持つて、用材になる太い木まで切り取つて行く、といつた相互のエスカレートが、天保12年の争論となつたのである。
 こん度の争論は裁許(裁判判決)とはならず、示談によつて事を納めた。即ち御利解(お上の説得による行政指導)により、元禄度の取り決めに双方戻ると云う事で決着した。元禄2年の裁許を固く守ると云う事であつたのである。「今更発明恐れ入り候」とは、今頃になつてようやく気がつき──道理を悟り──(地元村が秣場を自分の勝手から狭めたことと、入郷村々が無札にて、しかも御停止のなた、斧等を持参して、秣場内外で木まで伐り取つたことの非)恐れ入りました、と云う事であつた。
 即ち、地元村々に於いては、秣場に植えこんだ毒荏、三椏等は一切伐り払い、元の姿にかえし、入郷村々は鎌刈りの外は一切停止にして、勿論、今まで切半していた山手米銭は、全額入郷村にて支払うように、すべて元禄度の裁許に戻つて行つたのである。
 原因は勿論なし崩しに地元村が秣場を利殖を計つて狭めた事に、基因するが、それはやはり地元村々が、山中の貧村であると云う現実が、そのような結果を招いた、と云えぬこともない。因みに、秣場の原形復帰は、3年のうちに順次にとり行うように、申し渡された。  天保12年の示談は、双方共に不満であつた。その為にぐずぐずと長びいて、「右一件につき、双方重ねて御願いの筋、毛頭御座無く候」と云う誓文を立てたにもかかわらず、数年ならずして、上訴となつた。
 訴上は地元村よりなされた。入郷村々がみだりに秣場外の古林等にまで入り込み、草木を刈り取つている、と云うのである。それに対して入郷村々は、本来秣場である場所を、地元村にては古林、或いは私有地と称しており、秣の刈り取りも意に任せない、と反論した。即ち、地元村と入郷村との間に、秣場の範囲や境界について、大きなくい違いが生じていたのである。
 この事は元禄2年に秣場の線引きがなされてから、弘化2年まで、156年の歳月が経つてており、この長年月の間に、山相も変り、村々の住民も代を替えてしまつた。実際に秣場の境界が、不分明になつてしまつたのである。それで再び秣場の線引きが行われた。この線引きは地元村々から案内絵図を提出させ、杭を何本も打つて、大がかりのものであつた。竜爪山系の広い範囲にわたつて、行われたのである。
 その結果、秣場の範囲と境界がはつきりすると、幕府は関係各村へ、元禄の裁許に基づいて、決して違犯してはならぬと、固く言い渡して判決としたのである。
 この秣場の線引きは、幕府評定所の役人による、元禄度の境界の確認(再決定)であつたが、それは弘化3年(1846)秋の事であるが、その翌年、この地の地頭である小島藩の役人が検分して歩いた。この事が、竜爪山頂の文珠岳の文殊菩薩石祠造立の機縁となつたのである。
 その石祠に刻まれた藩主の銘には、次の如く記されている。
3年
せんぶん
同4年
 「竜爪缶下の民有秣場の地、訟久しくして決せず弘化丙午秋、官境界を僉 分 す。丁 未我が藩臣奥平師□、伊藤自応、渡辺興行、矢島政程等、旨を奉じて之を検す。‥‥‥公裁理を正し、永く民庶の利をなす。是また仏の霊護なるかな。‥‥‥云々。」と刻まれている。
○その後の秣場
まぐさば
 竜爪秣 場に関する争論は、弘化の請証文の後もずつと続いており、明治になつてからも、何度か済口になつている。
 明治改元、戊辰戦役と、世はまさに動転の時代であるが、地方文書を見る限り、そのような形跡は、ほとんど感じられない。為政者は代わつても、庶民の労苦には変りはないとでも云うべきであろうか。明治も始め頃の文書は、徳川期のものと、全く変らないのである。しかし当時の村々が、激動の時勢の外にあつたなどと云うのでは、決してない。
 明治新政府もようやく落ち着いてくると、農村の生活も安定に向い、生活様式も変つて来た。明治9年に秣場最後の裁判があり、その裁判によつて、さしもの竜爪秣場争論も終結した。実に元禄2年から数えて、187年の長丁場であつた。その判決は、元禄2年、及び弘化3年の裁許と、ほとんど変りはなかつたが、各村々の生活の変化により、昔のように、秣場での草の刈り取りを、必要としなくなつていた。
 その後の秣場は、一時官地へ編入されたりしたが、何回かの民有地への払い下げの運動の結果、現在は民有地となつている。静岡市平山区の場合、字「中野分」として、山中の広汎な土地を、多くの筆で分けている。