あ と が き
 この本が書かれるようになったきっかけにはいくつかの偶然が重なっている。
 昨年7月、そのころ読んでいた幕末の捕鯨についての古文書の参考とするため、古式捕鯨の発祥の地、和歌山県太地町の「くじらの博物館」を訪れた。同じ和歌山県の園部町で発生したばかりのいまわしい事件を、マスコミが間断なく報道しはじめたころである。
 そして、たまたま宿泊したホテルの従業員に勧められるままに豪雨の中、熊野三山を観光バスでめぐり、神倉山に登ってゴトビキ岩も訪れた。「竜爪山開白ゑんぎ」を入手したのはその直後だった。
 しかし、そのときはまだ竜爪権現が熊野三山に関わる神であるとは少しも考えていなかった。
 それが、静岡県史で権兵衛の滝紀伊の名を眼にしたとき、ふと「紀伊」とは熊野の紀伊ではないかと気づいたのだった。穂積神社の「穂積」も、熊野神官の祖の名から出たのではなかろうかと思い当たった。
 薬師如来と文珠菩薩が熊野速玉大社に祀られる神々の本地ではないかという発想も、明け方の寝床の中であった。
 紀伊も穂積もそして本地垂迹説も、なんの脈絡もなく突如として私の脳裏に浮かんできたのである。
 このときから私の意識下にあった熊野権現や修験道が考察の対象となりはじめたのである。私にはこれらは熊野や穂積の神々の啓示としか思えない。なぜかと問われても答えようがないのである。
 はじめ私はこの本を新書版で出版しようと考えた。廉価なものにして、ひとりでも多くの方に読んでいただきたかったからである。ところが出版界の事情にくわしい私の友人はまるで反対の忠告をしてくれた。貧弱な体裁の本やあまりに安価な本は、内容はどうあれ、売れないというのだ。
 文庫本と新書が知識の源泉だったかつての貧乏学生は、彼の言葉に耳を疑った。そして、本も女性の化粧品や香水とひとしなみの扱いを受けているのかと天を仰いだ。出版文化も衰退するわけである。
 内容に比較して立派すぎる装丁の本になったのは右のような理由からである。価格も不本意ながら新書のようなわけにはいかなくなった。
 それでもなお私は多くの方々にこの本が読まれることを願っている。ご叱正はもちろんだが、率直なご意見をいただきたいからである。また、それ以上に竜爪権現・穂積神社や権兵衛にかかわる新たな史料や伝承が発掘されることを期待しているからである。
 そしてそれらをもとに一日も早くこの本を書き直す日が来ることが、今回の執筆にあたりお世話になった多くの方々への私のささやかな恩返しだと考えている。
 一つだけ心残りがある。清水市吉原地区や河内、大平地区の調査をほとんどしなかったことである。吉原地区には名刹善原寺があるし、大平地区には古い歴史を誇る鎮札神社が、河内地区には大棟梁権現がある。由緒あるこれらの寺社を視野に入れていたならば、竜爪権現と徳川家康伝説とのかかわりや望月氏の系図と大棟梁権現との関連などがもう少し解明できたのではなかったかと残念でならない。これも他日を期すしかない。
 穂積神社の氏子のみなさんはこの本の出版を我がことのように喜んでくださった。とくに多くの方々から地域の活性化につながるとの、途方もなく、身に余り過ぎる言葉をいただいたのには恐縮した。
 氏子のみなさんが私を暖かく受け入れてくれたこともまことにありがたいことだった。
 古本萬吉さんにはひとかたならずお世話になった。私の無遠慮でしつこい質問にも、笑顔を絶やさず懇切に答えて下さった。
 そればかりか、原稿を繰り返し読んでは誤りや不適切な表現を指摘していただいた。
 また、口絵の穂積神社はじめ、いちいち注記はしなかったが、掲載されている多くの写真を撮って下さった。
 古本さんがいらっしゃらなかったらこの本は生まれなかっただろう。
 あつくお礼を申し上げたい。
    平成11年9月
渡 辺 宏 暢