竜爪権現・穂積神社の謎を解く作業はようやく終わった。そうはいっても、謎のまま残ってしまった部分も少なくない。
竜爪権現以来の伝統のある鉄砲祭や、明治以降第二次大戦終了までの弾丸除けや徴兵除けの神としての殷振ぶりについても触れるべきだろうが、これらについてはすでに多くの方々が論文などに取り上げているから、いまさら私が述べる必要もあるまい。
伊豆半島や御殿場など各地に伝播した竜爪信仰についても同様である。
ただし、最後の問題が残っている。樽系図と寛文縁起の作者の問題である。清地系図についても考えたいのだが、内容に理解できない部分が多く、このさい考察の対象からは除外することにする(ただ、私はあとで述べるように、清地系図も同一作者の手になったものではないかと考えている)。
もちろん系図や縁起は後世の人々の要請に応じて、書き替えられたこともあるだろう。延享縁起はその最たるものである。樽系図は昭和46年までの人物を記しているから、子孫たちが書き継いできたさい、内容を付け加えたり削除したりした部分もあるだろう(清地系図も明治初年あたりまでを記している)。
権兵衛に関わる注書き以後、望月、滝両氏の記録にはめぼしいエピソードは記録されていない。
両氏の年代記は権兵衛かその孫あたりで完結し、あとは単純に系図に代々の当主を書き加える事務的な仕事のみが残ったらしい。
だが、樽系図と寛文縁起の原型を考案し、両者を有機的に結びつけて慶長の権兵衛伝説に組み上げた人物が必ず存在したはずである。いったいそれはどのような人物なのだろう。
私はまず樽系図の作者と寛文縁起の作者は同一人だと考えている。二つの文書の思想や作成上のテクニックとでもいうべきものが共通しているからである。
樽系図は徳川家康と武田氏とを重視し、武将としての望月氏が二人に忠義を尽くした経過をこと細かに記している。武田氏のためには、望月氏の祖先たちを川中島や上田原などの各地に転戦させている。勅使下向のさいは、長田までの出迎え役を果たしている。武田氏に忠義一途の働きぶりである。
また、わざわざ武田の武将であったことを人々に印象づけるために、武田の姓を樽の権兵衛や彼の父親に名乗らせている。
徳川家康への迎合ぶりにはもっとすさまじいものがある。
右馬頭太夫義旭には家康の幼名の竹千代を与えているし、飛騨守義胤には徳川氏の先祖の新田義貞の後を追わせて殉死させるために、わざわざ左近丞政治の名を案出して後継者に仕立て、後顧の憂いなからしめている。
家康への忠義の姿勢は寛文縁起にも貫かれており、大阪夏の陣では竜爪権現の家康馬前における献身的な働きぶりを活写している。
このように縁起と系図の両方に共通する用意周到ともいえる文書作成の技法は、同一人物でなければできないことだろう。
また寛文縁起の前半部は熊野地方に伝えられていた種蒔き権兵衛の物語からヒントを得て作られており、一方の樽系図は各地に残る伝説や口碑を参考にしている。これらも同じ手法で作成されている。
そして、両者とも軽いおかしみをともなって処理がなされているのは、作者の手腕とでもいうべきなのだろうか。
竜爪権現が家康のために大阪夏の陣で粉骨砕身するさまも憎めないものがあるし、種蒔き権兵衛の物語は、烏という死をイメージする鳥が登場するにもかかわらずユーモアを感じさせるが、これを使って寛文縁起に作り上げた作者も、また諧謔の精神を持つ人物だったのだろう。
とくに、鬼児島弥太郎を討ち取る理由を源義家の古歌に求め、鬼児島討取が義家の往生の障りとならないようにするための手段だったと読む者に理解させようとしていることなど、古典落語を聞いているような感さえある。
私はまた、西奈村誌や望月光春さんの論文などに紹介されている平山滝氏蔵といういくつかの文書も、すべて同一人物の手になるものだろうと考えている。
家康への忠義をあらゆる機会を捉えて表明していることも、樽系図と寛文縁起に共通する態度である。また、二代将軍秀忠への文書は竜爪権現の初代社人である権兵衛の息子権之丞名とすることも、この作者らしい機転のきいた方法である。
私が樽系図を私なりに解読するだけでも約5ヵ月の月日を要した。その間、連日のように静岡県立中央図書館はじめ、いくつかの図書館に通い、歴史や神道、民俗に関する著書を読み、関連論文を追った。地名辞典や歴史辞典も欠かせなかった。
それらを読んでもまだ疑問が残るため、著者に手紙で照会したことも再三ならずあった。ほとんどの方々がお忙しい研究の時間を割いて、一面識もない私のために回答を寄せて下さった。
また、海山町はじめ東部町、望月町、石和町、竜王町、鳳来町など、権兵衛の祖先たちが足跡を残した自治体に、必要なデータを収集するためにかずかずの問い合せをし、資料や写真をいただくとともに貴重な助言も得ることができた。
電話で関係者に質問を繰り返したりもした。それでも飽きたらず、望月氏や滝氏の子孫の多くの方々のお宅を訪問して、書物では得られぬ数々の口承を聞くこともできた。
以上の個人・団体のリストだけでも、今では百件ほどになっている。
私はこの本を書いて、初めて日本の情報システムが完備されていることを痛感した。郵便や電話を利用すれば、わずかの費用で知りたい情報を入手できるのである。近くの図書館に行けば、何万人という数の人々の知識をいながらにして得ることができる。
権兵衛ゆかりの地を訪れるのも、今は新幹線もあるし飛行機もある。交通は四通八達である。熊野三山を巡るのも一泊の旅で十分である。
ひるがえって権兵衛伝説を書いた作者の時代はどうだったろう。飛行機や図書館などはもちろんない。便利な郵便や電話もない。
作者はどのようにして、権兵衛の祖先たちの住んだ土地の歴史を探り、逸話を求め、それをほとんど矛盾もなく組み合わせて、あのような神話と年代記を作り上げたのだろう。遠い土地の事情などはどうして知り得たのだろう。
私は関連する書物を読みながら、あれこれ作者を思いやった。ユーモアのセンスもあるうえ、歴史や古典の素養もかなり持っている。
それにしても現在より格段に不便だった江戸時代にあって、よくぞこれだけの資料を収集できたものと感嘆せざるを得ない。
慶長年間に出版された「大阪物語」という書物がある。
大阪夏の陣の直後に、戦争の模様を細かく描写した仮名草子が発行された。その前の大阪冬の陣にも同じようなものが出版された。いずれも現在のニュース速報にあたる本である。
「大阪物語」はこの二つを合本にした仮名草子だが、私は寛文縁起はこれを下敷きにしたと考えている。寛文縁起の文体と「大阪物語」の冒頭とが実によく似ているからだ。
寛文縁起は現在形を多用して、臨場感を盛り上げている。これが大阪物語そっくりなのである。
作者は正体を現わさない
私は江戸時代に刊行された木曽道中勝景行程記や東海道巡覧記などの道中記はじめ、名所図絵のいくつかに目を通した。
とくに18世紀末に活躍した
秋里籬島が著した木曽路名所図会や東海道名所図会の中に、権兵衛の祖先たちが歩いたであろう土地の挿話を探して読んでみた。
このような旅行案内記に、作者の情報源が隠されているのではないかとひそかに考えたからである。その書物の発行年次から、作者が寛文縁起と樽系図の原型を書いた時期が特定できるのではないかと、そしてあわよくば作者の正体を明らかにする手がかりが得られるかと思ったのだ。
残念ながら、私の楽観的な期待は裏切られた。鬼児島弥太郎のエピソードも巫女のノノーのことも、信玄堤維持のために立村した甲斐国竜王新田の東照宮勧請の物語もいっさい見当たらなかった。作者は簡単には馬脚を現してくれなかった。
権兵衛や竜爪権現・穂積神社の謎を解く作業は、ある意味では私と作者の知恵比べだったといってよい。難解なパズルを解きながらも、一面では作者とゲームを楽しんでいたのかも知れない。
囲碁は別名を手談という。石を碁盤の上に置くことが、対戦相手と会話を交わしているという意味だ。ゲームをしながら、私は勝負を離れて私と作者との間にはこの手談に似た雰囲気が生まれていることを感じるようになっていた。もっとも、私の勝手な思い込みかもしれないが。
だが、ゲームの主導権は常に作者に握られていた。
作者は種蒔き権兵衛の謎を「どうだ、わからないだろう」と、にんまりしながら私に投げかける。私が参考書を武器に四苦八苦してようやく解けたと思うと、またまた作者は「はい、お次だよ」といいながら、樽八兵衛の問題を愉快そうに私の眼前に突きつけるのである。すると私は意地になって、再びこれに挑戦する。
このようなわけで権兵衛伝説の作者については何もわからない。
しかし、彼はその名を系図の中にとどめていると私は考えるようになった。
滝内記がその作者か
それが清地系図にある「滝内記」であろうというのが私の想像である。
私が作成した「慶長の権兵衛(樽の権兵衛)と寛文の権兵衛(滝紀伊)」(表(2))という長い名の表には、寛文の権兵衛(滝紀伊)の欄に内記の名がある。
それでは内記とはどのような職に従事する職名なのだろう。
古語辞典などによると、内記とは令制で中務省に属し、詔勅や宣命などを起草したり、位の高い人々の位記や宮中の記録をつかさどったとある。要するに天皇の側近にあって、天皇の名で発給する文書を作成する重要な任務である。
位は五位以下と決して高くはないが、豊富な知識と高い教養がなければ勤まる職種ではない。
とくに儒教をはじめ漢学の素養は高度なものが要求されたらしい。内記とは文章の一流の専門家である。
そう考えると、滝内記は滝氏にあって、権兵衛すなわち滝紀伊の系図や縁起を書く内記の役目をした人物ではなかろうか。「滝氏の内記」である。滝内記とはその仕事にはうってつけの名ではないか。
滝内記について私がこのような想像をかき立てるのは、清地系図にある次の一文である。それは「権兵衛が竜爪権現の神官となったさい、黒川村と平山村両村との間で、竜爪権現の社地について範囲を定め、境界を確認した。そして、権兵衛の自筆の覚書は吉原村滝内記方にある」というものである。たしかに滝内記の名は吉原滝氏の資料にも見られる。
この文から推察できることは、滝内記がただ系図や縁起を作成するのみでなく、寛文の権兵衛すなわち滝紀伊や竜爪権現にとって重要な文書を保管する役にもあったのではないか、ということである。そうだとすれば、このような仕事も公文書などの書類を扱う内記にはもちろんふさわしい。
当時の滝氏一族にあっては、始祖である寛文の権兵衛は天皇と同じく、この上なく大切な人物だったのだろう。
そのため、系図と縁起の作者は内記という名を持った人物を置き、彼に権兵衛すなわち滝紀伊の縁起や系図を書かせ、かつ権兵衛自筆という重要な書類は、彼の手元に保管したことにしたのではなかろうか。
これは想像の域を出ないかも知れない。だが、今の私には「滝内記」が右に書かれたような人物に思えてならないのである。わたしが清地系図も同一人物の手になる可能性があると考えたのはこのような意味である。
(了)