第4節 穂積神社と大己貴命・少彦名命
「穂積」は古代の熊野神官の名
 最後に穂積神社の名称と祭神の大己貴命と少彦名命について考えることにしよう。はじめに述べたように、神社名と祭神名とは密接な関係にあり、両社を切り離して論じてはならないのである。
 まず穂積神社の名称のもととなった「穂積」とはどのような意味があるのだろう。熊野那智大社に収められている熊野山略記などの伝説は、次のように述べている。

 「孝昭天皇53年、一人の化人があり、新の御山で十二所権現を崇めていた。これを新宮と呼ぶ。権現は垂迹のとき、竜蹄に乗り、千尾の峯に降臨した。そして、奉幣の司である氏人を召された。
 そのとき、漢の司符将軍の嫡子の真俊が進み出て、権現を12本の榎の本に勧請した。これにより真俊は榎本の姓を賜った。
 二男の基成は猪子と円い餅を進めた。よって丸子の姓を賜った。
 三男の基行は秣として稲を進めたので、穂積姓を賜った」と。

 穂積氏は兄の榎本氏や丸子氏とともに、熊野権現に命じられて権現の神官となった。
 この伝説とは別に、姓氏家系辞典は穂積氏が古代の豪族でかつ物部氏の族であり、熊野国造の族類であろうと推量している。
ナガスネヒコ
 穂積氏の祖はウマシマジ命である。ウマシマジ命は物部氏の遠祖であるニギハヤヒ命の子で、母は長 髄 彦の妹である。
 古事記によれば、神武天皇が長髄彦を攻めたとき、ウマシマジ命ははじめ天皇に反抗した。しかし、のちに長髄彦を殺して天皇に帰服した。そして、天皇が国内を平定して即位してからは、皇城守護に当たったという。
 熊野山略記にいう孝昭天皇は神武天皇の四代後の第五代天皇である。しかし、この天皇の存在を歴史書は認めていない。それほどに古いのである。まして、ウマシマジ命となればもっと古く、神話と歴史の中間に位置する人物である。
 一方、穂積氏は前に記したように、漢の司符将軍の子とある。漢とは紀元前に中国に興った王朝名である。日本の歴史でいえば、倭人が漢の植民地であった朝鮮半島の楽浪郡に朝貢した時代である。
 熊野権現神官の穂積氏は我々には想像もつかない時間と空間の歴史を持つ。穂積神社は、この最初の熊野神官の名を取って命名されたのである。
 私は穂積神社の社名の中に、熊野修験系の山伏であった権兵衛から脈々と受け継がれてきた誇り高い山伏の魂と悠久の歴史がひそかに込められているのだと思っている。
熊野に関係が深い大己貴命と少彦名命
 次に祭神の大己貴命と少彦名命について考える。
 まず大己貴命は、ほかに大国主命、大物主命や八千矛神など多くの名を持った神であるが、那智の滝の地主神である。
 この神は古事記や日本書紀によると、天津神との戦いに敗れた国津神で、出雲大社を与えられて幽隠した。あの壮大な出雲大社の建物は大己貴命の墓所なのである。
アワガラ
 一方の少彦名命は大己貴命と協力して国作りをしたのち、粟 茎に弾かれて海の彼方に神去りました神である。少彦名命は死んで常世の国に赴いたのである。
 清地系図に不思議な注書きがある。

 権兵衛はある時、崖から身を投じて行方が知れなくなった。そして、彼は竜爪権現の地主神になった、と。

 この文はいったい何を読者に伝えようとしているのだろう。
 私は、権兵衛は右に書いた大己貴命と少彦名命の両神の役割を与えられたのだと思う。
 再三述べたように、竜爪権現は熊野三山のうちの二山、すなわち速玉大社と那智大社をあわせた「両所権現」から派生した名称だった。
 前者は薬師如来を本地とする。この如来は後述するように少彦名命と習合しやすい。一方、那智大社の地主神は大己貴命である。
 権兵衛が竜爪権現の地主神となったのは、大己貴命が那智の滝の地主神となったことにならったものである。
 また、権兵衛が地に身を投じて行方知れずになったことは、少彦名命が粟茎に弾かれて常世の国に飛んで行き、姿を隠したことに準じたのである。
 権兵衛は竜爪権現の開祖から地主権現へと変化し、本殿の奥に祀られた。あわせて彼の所持していた鉄砲が彼の霊代となり、金山権現と化して神聖な奥の院の亀石上に安置された。そして権兵衛に代わり、大己貴命と少彦名命が新たに竜爪権現の祭神として勧請されたのである。

北沼上の左ロ神社
 奥の院に関連して述べておきたいのは、静岡市北沼上にひっそりと祀られている左口神社のことである。
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地主権現
 この神社は、北沼上の滝さんのご本家がお守をされている。滝さん宅は権兵衛の子の勘之丞あるいはその子の大和守正定からの分家である。これは長門正も萬記録に書いている。
ヤチマタノカミ
 現在は、八 衝 神の木の祠が中央にあって、左側に古い石祠があり、右側には若宮八播と呼びならわされているコンクリート製の小さな祠がある。
 滝さんの説明によると、先祖の権七が分家するとき、ここに地主権現、すなわち権兵衛を分祀したのだそうである。それが左側の石祠である。滝さんが祖母から教えられた話として聞かせてくださったのだが、権七はこれを背負って竜爪山から北沼上に降りてきたという。それ以来、今日までこの北沼上の滝さん一族は権兵衛の命日に祭を欠かしていない。
 なるほど、苔むした石祠には「延享2年乙丑11月吉日」の文字が彫られている。権七は延享4年に死亡しているから、これは権七の死の直前にここに安置されたのだろう。若宮八幡もはっきりしないが、このとき同時に竜爪山から降ろされたらしい。
 なお八衝神は後世に道祖神に代って勧請された神のようである。
薬師如来と少彦名命は習合しやすい
 話をもとに戻す。少彦名命は薬や医療の神としても信仰されている。現在でも大阪の道修町には、少彦名命が祀られている。いうまでもなく道修町は薬の街である。
 一方、薬師如来もまた薬と医療の仏である。その右手に持つ薬壷は、衆生の肉体の病のみでなく、心の苦しみを除いてくれる薬が詰まっている。少彦名命も薬師如来も医薬に関わっている。したがって両者は習合しやすい。
 私は熊野速玉大社の神・イザナギ命の本地である薬師如来から少彦名命が想起され、この神が新たに那智大社の地主神である大己貴命とともに穂積神社の祭神となったと考えている。
 そして熊野最古の神官であった穂積氏の名を与えられた穂積神社の本殿に、二柱の神が鎮座しているのである。
タニグクつまりゴトビキ岩の役割
 もう少し大己貴命と少彦名命の二柱の神について語る神話を見よう。
 古事記は出雲における事件として、次のような話を記している。

 「ある日、大国主命(大己貴命)が出雲美保崎にいると、遥か沖合いの波間に小さな神の乗った舟が浮かんでいた。その神のことを大国主命も知らなかったし、近くにいたお供の神々も知らなかった。
クエビコ
 するとタニグクが進み出て、久延毘古(案山子であるという)なら知っているだろうと大国主命に教える。
カミムスビ
 大国主命に呼ばれたかかしのクエビコは『あの神は神産巣日神の子で、少彦名命である』と告げた。それから大国主命と少彦名命は兄弟の契りを結び、ともに国作りを行う」と。

 古事記によると、大国主命ははじめ少彦名命が何者であるかを知らなかった。二柱の神が知り合うきっかけを作ったのはタニグクであった。タニグクとはゴトビキと同じくヒキガエルをいう。
 私はこの神話は、神倉山のゴトビキ岩上での両神の初めての出会いを意味しているのだと考える。
 熊野権現の縁起では、速玉の神と結び神もこのゴトビキ岩に降り立った。そのゴトビキは二柱の神の出会いにも働いている。単なる偶然であろうか。
 奥の院の亀石は竜爪山のゴトビキ岩である。この亀石上に金山権現を安置したことは、速玉の神と結びの神と深い関わりのある大己貴命と少彦名命とが初めてゴトビキ岩上で出会ったことを、金山権現すなわち権兵衛の霊代によって表現しようとしているのではないだろうか。
ゴトビキ
 大己貴命と少彦名命とは、神 座岩とともに熊野三山、とくにそのうちの両所権現である速玉大社と那智大社に関係するところが大きい神である。両神はその故にこそ、熊野神官の遠祖・穂積氏の名を持つ穂積神社の祭神たり得たのである。
 平安時代以来の、駿河における両所権現が、これも熊野権現の最古の神官である穂積氏の名から命名された穂積神社において復活したのだった。
両祭神を勧請した隠された理由
 しかしながら、大己貴神と少彦名命という両柱の神が穂積神社の祭神として選択された理由は、以上に述べたような、単なる日本の古代神話との関連のみではなかったのである。そこにはもっと深い意図が隠されていたと考えなければならない。
 それは竜爪権現が江戸幕府の厳しい山伏統制の中で生き残るための必死の手段だったといってよい。
 まず、少彦名命から考えてみよう。それには徳川家康の東照大権現という権現号を取りあげる必要がある。
カリ
 まず、権現とは前にも述べたように、人間には見えない仏菩薩が、目に見える形を取って衆生救済のために権に姿を現したことをいう。
 ふつうは本地垂迹説によって、仏菩薩が日本の神々に姿を変え、この世に現れたという意味で使われることが多い。
 「東照」とは「東を照らす」である。東とは薬師如来の住む世界。薬師如来は東方にある浄瑠璃世界の教主であり、入々の病を治療し、福運などの現世の利益を授ける仏である。だから「東照」とは薬師如来を指している。
 家康の先祖は、時宗の僧として全国を遊行していて三河へ入った。そして子孫の家康は戦国時代を勝ち抜き、天下統一を果たし、征夷大将軍として江戸幕府を開いた。
 前に樽系図を説明したところで、三河の鳳来寺について書いたことだが、家康を薬師如来の申し子とする伝承が近世に形成された。家康の父母の広忠と於大の方が長いあいだ子宝に恵まれず、鳳釆寺の薬師如来に祈って授かったのが家康だという。
 家康を神のごとくに崇拝していた三代将軍家光は、日光東照宮縁起でこの家康の薬師如来申し子説を知り、日光東照宮を大改築したし、また後には鳳来寺に東照宮設置を発願し、こちらも慶安4年に竣工している。
 日光東照宮の薬師堂には秘仏の薬師如来が安置されている。天井の鳴竜で有名な堂である。創建当初の竜は狩野永真の筆になるが、昭和36年の失火で薬師堂が炎上焼失し、現在のものは芸術院会員の堅山南風による。
シャバ
 この薬師如来が家康の本地仏である。だから、家康は戦乱の世を平和な世に変えるために娑婆(現世をいう)世界に出現した薬師如来ということになる。
 一方、前に記したように薬師如来は医薬の神である少彦名命と習合しやすかった。薬師如来は熊野速玉大社の神の本地仏である。そして薬師岳の名の由来となった。その薬師如来と徳川家康、それに少彦名命の三者の間には、少彦名命=薬師如来=家康という図式が成立する。
 徳川家が篤く崇敬した静岡浅間神社の境内には、静岡県の重要文化財に指定されている少彦名神社が一隅に祀られている。
 これはもと神宮寺薬師社といい、薬師如来の十二の本願を守護する薬師十二神將を祭っていた。維新後の神仏分離で臨済寺に移され、現在は少彦名命を祭神としている。これも薬師如来が少彦名命に習合していることを示す例証の一つである。
 薬師如来の縁日は8の日が多い。日光東照宮の薬師堂の例祭は1月8日、5月8日、9月8日である。そして、静岡浅間神社の少彦名神社の例祭も1月8日なのである。
 日光東照宮と静岡浅間神社という家康と因縁浅からぬ神社においても、少彦名命=薬師如来=家康という同様の図式が成り立つのである。
 次に大己貴命はどうなのだろう。この神もまた徳川家康や江戸幕府と関わりのある神なのだろうか。おおありなのである。
 大己貴命が那智の滝の地主神であることは前にも触れたが、江戸幕府はこの神を幕府の守護神と考えていたらしい。これは静岡市内に鎮座し、同じく大己貴命を祭神とする小梳神社の社頭にある由来記に明かである。
 またその由来記には、駿河に人質となっていた家康がこの神を尊崇し、祖母の華陽院とともに小梳神社に参拝していたことも記録されている。
 日光二荒山神社は日光東照宮の地主神だが、祭神はやはり大己貴神である。
 静岡浅間神社には本殿として神部神社と浅間神社があって、神部神社の祭神はこれまた大己貴命なのである。
 私は以上のことから、両神が穂積神社の祭神とされたのは、家康や江戸幕府が尊崇する神々であったというのがもう一つの理由だったと考える。というよりも、竜爪権現を徳川家康に親近する神社とするために両神が必要だったのである。それは竜爪権現の幕藩体制下で生き残るためのしたたかな選択であったといえるだろう。
 竜爪権現はみずからと古事記の大己貴命・少彦名命とを、熊野権現とのかかわりから直接に位置づけた。その神社名も熊野速玉大社の最古の神官名である穂積氏に名を求めて、穂積大権現に改めてもいる。
 一方、みずからと徳川家康との関連は直接にではなく、両神を介在させて間接的に表現したのである。まず自分の背後に大己貴命と少彦名命という両神を置き、その後方に徳川家康を配したのだった。こうして竜爪権現は徳川家康の前立ちとなり、彼の旗神となることができた。
 竜爪権現から二柱の神への祭神の変更は、吉田神道に要求された結果ではあったが、同時に竜爪権現、すなわち穂積大権現が生存をかけた、この神なりの政治的な決断だったともいえるだろう。
 こう考えれば、寛文縁起・樽系図・清地系図における家康迎合の意味も、さらに穂積神社の祭礼の日が久能山東照宮の祭礼の日と重なる理由もすべて理解できるのである。
 竜爪権現・穂積神社の謎を解く鍵は、熊野山伏と徳川家康だったのである。
穂積神社に出現したヒキガエルの大群
 この章を終えるにあたり、穂積神社の氏子たちが体験した不思議としかいいようのない事件を紹介しよう。祭神の大己貴命と少彦名命を結びつけたタニグクすなわちヒキガエルの大群が穂積神社に出現したというものである。
 平成6年4月16日、現在の社務所の工事が行われていた。翌17日が竣工式だったのである。雨上がりの日だった。
 すると、夕方からヒキガエルが二匹ずつ交尾のために重なり合い、「ククク」と鳴きながら境内に姿を現しはじめた。水溜まりに卵を産みつけるためである。
 その数は次第に増し、数百匹はいただろうという。さしもの広い境内も黒いヒキガエルの群の巨大な塊で埋まった。ぬらぬらと光る卵に氏子たちは肝を潰した。
 工事の邪魔にもなり踏みつけそうなので、氏子たちは薄気味悪さをこらえ、こわごわと段ボールにヒキガエルを入れて社務所の裏の林に捨てた。
 始末に困ったのは卵だった。トコロテンのようなゼリー状のものの中に、黒く点々と卵が浮かんでいる。
 氏子たちは及び腰でそれを両手ですくい取っては、バケツに入れて片付けた。除去作業は一晩中続いたそうである。
 不思議なのは、これほどのヒキガエルの大群が出現したのは、後にも先にもこれ一回きりだという。
 16日といえば、権兵衛の命日にあたる。このことを氏子たちはそのときは気付いていなかった。のちに思いあたったのである。氏子たちはヒキガエルが社務所の完成を祝って権兵衛の命日を選び、大挙して出現したのだろうと解釈している。
 氏子たちはヒキガエルがこれまで述べたように権兵衛や穂積神社と少なからぬ因縁のあることを身をもって知ったのである。