第3節 穂積神社 建物のうつり変わり
静岡県明治銅版画風景集
 ここでは、口絵に掲載した往時の穂積神社を描いた一枚の銅版画について説明しよう。あわせて江戸時代の竜爪権現から今日の穂積神社まで、本社をはじめ主な建物のうつり変わりを見ることにする。
 「静岡県明治銅版画風景集」(平成3年 羽衣出版渠ュ行)という名の画集がある。
 明治25年から26年にかけて、東京浅草の精行舎が「日本博覧図静岡県初編」「日本博覧図静岡県後編」として発行した。これを静岡市の羽衣出版が一冊に編集して復刻し発刊したものである。
 風景集は明治以降の開化の度合いを絵で示そうとするところに目的があった。明治以降の政治、経済、社会、文化など、さまざまな分野の変革する姿を精密な銅版画によって知らせようとしたものである。
 絵は437枚あって、ほぼ静岡県全域から取材している。対象は農・工・商家の邸宅や寺院、神社などさまざまである。ただし、これらの絵を見ると、とくに定まった選択の基準があったわけではないらしく、なにがしかの締約金を支払えば収載されたようである。
 いま、穂積神社のほかに、周辺の静岡市や庵原郡、有度郡を見ると、たとえば次のような建物が掲載されている。
静岡市
庵原郡
有度郡
機陽館(停車場前)
神宮教静岡支部(紺屋町)
太田源左衛門(庵原村山切)
吉川和太郎(有度村吉川)
安達重助(江川町)
手塚忠兵衛(安倍川町蓬莱楼)
沢野精一(袖師村嶺)
山田冶作(入江町)

銅版画に残る穂積神社の偉容
 さて、穂積神社の銅版画であるが、薬師岳の斜面に沿う二町五反の境内地の中のもっとも高いところに「本宮」と記された小さな社がある。そこから下に本社はじめ大小さまざまの建物が立ち並んでいる(現在の穂積神社の境内には、建造物は本社と社務所の二棟がある)。
安永元年から昭和7年までの本社地
安永元年から昭和7年までの本社地
昭和9年造立の本社
昭和9年造立の本社
 銅版画には、本宮の下方にひときわ大きな本殿と拝殿が別棟で建つ。これが本社であるいくつかの末社も本社の周囲に祀られている。
 すぐ下に八幡宮と記された空地がある。脇には射的場がある(ただし、この表示は後に記すようにやや正確さを欠いている)。
 さらに斜面を降って来ると寺院風の祈祷所がある。ほかに神楽殿も見られ、附属施設として社務所や参籠所などもあって二の鳥居に至る(なお、一の鳥居は平山地内の旧参道に立っている)。
 この本社は昭和50年代に、20億円を越えると見積もられたのだから、銅版画の全建物の建設費を合計すれば、数10億円に達しよう。穂積神社が大衆の信仰を集めていたことをこの絵は物語つている。
 さて、本宮である。
 ここは亀石(神倉山のゴトビキ岩になぞらえたものである)のある奥の院である。駿河における熊野権現の聖地であったが、権兵衛はみずからが感得した竜爪権現を祀った。
 そして権兵衛の死後、彼の霊代として彼が所持した鉄砲が祀られた。金山権現である。
 権兵衛以降、竜爪権現の本社はこの本宮あたりに繰り返し造立されていた。長門正の古今萬記録にその造営年次が詳細に記されている。
 ところが安永元年(1773)に山崩れがあって地形が変わり、本宮付近が本社造営に適さなくなった。ためにその翌年から銅版画の本社の位置に造立されるようになった。
 それ以来、昭和7年まで160年の間、ここが本社の地であった。今は写真のようにわずかに小さな石塔一基が立つのみの空地になっている。ここに本社があったと指摘されなければ見過ごしてしまうほどの一面の薮である。
 銅版画の本社は明治6年に造営された。地の木、すなわち竜爪山に生育していた杉を用材にした堂々たる建築物だったことは前に触れた。(275ページの写真(s)
 しかし、惜しいことにこの本社は昭和7年の台風のさい、倒木によって破壊されてしまった。
 代わって本社はの広い空地に建設された。昭和9年のことである。銅板葺きで当時の金額で1万2千円の建設費だった。昭和63年ごろの推定では約5億円だった。これは竜爪山の樹木を使用せず、用材を含む資材の一切を下から運んだ。地の木を使わなかったために腐食が早かったといわれる。
 この空地には本社の建設以前、一字一石経が散乱していた。石経の段と呼ばれるのはその故である。
 銅版画が描かれた当時は空地であったが、その用途は明かでない。ただ、何かの修行地だったと伝えられている。
穂積神社の受難時代
 昭和20年6月、昭和9年建設の本社をアメリカのB29が爆撃した。屋根の銅板に飛行機の電波探知機が反応したからである。500キロ爆弾が投下されたが、一発も命中しなかった。弾丸除けの神の神威は遺憾なく発揮された。
 爆弾は神社周辺の山林に落下したが、八畳ほどの広さの穴が今でも残っている。
 次に、敗戦後のことであるが、本社後面の屋根の銅の葺板がそっくり盗まれていた。「盗まれていた」というのは、誰一人として盗難に気づかなかったのである。日清・日露戦争以降第二次世界大戦まで弾丸除けの神として賑わい続けた穂積神社も、戦後は参詣者は皆無に等しかった。そのことが被害の発見を遅らせた。
昭和9年から63年までの本社地
昭和9年から63年までの本社地
 銅板を盗んだ神をも恐れぬ男は、その後、久能山東照宮に侵入し、国宝級の兜の鍬形を酸素ボンベで焼き切ろうとして取り押さえられた。余罪を追求された犯人は、穂積神社での犯行を自供した。警察の通報で、初めて氏子の人々は本殿の屋根が被害にあっていたことを知ったのである。
 穂積神社と東照宮とは崇高な神の世界のみでなく、生臭い現世の刑事事件でも縁が深かった。なお、その屋根板を盗んだ男の家には、銅板三十八貫(約140キロ)が隠匿されていた。
 屋根の銅板の半分が消失したので雨漏りがひどく、建物の傷みは加速された。
 その後、この本社は荒れるがままだった。穂積神社は疲弊し、修理の費用を捻出することができなかった。敗戦国には弾丸除けの神は不要である。ラジオでポツダム宣言受諾を伝える玉音放送を聞いた瞬間、人々の心は穂積神社から離反してしまったのである。
 屋根は腐食し、雨に濡れた床は落ちた。わずかに立っていた柱は、心ない登山者によって焚火の燃料とされた。本社は見る影もなくなっていたのである。
 陽気な氏子たちもこの話をするときはしんみりとする。穂積神社の受難の時代であった。
 現在、この地は本社跡地として残されている。小さな祠のほかに、戦前の軍人や兵士の信仰を集めたことを物語るかのように、山県有朋書の大きな石碑が片隅に立つ。
数々の付属の建物
 八幡宮に移る。これはこの空地のすぐ下側にあった。そして、さらにその下の斜面が射的場だった。したがって、風景図に記入された八幡宮と射的場の表示はやや不正確である。もう少し下方に書かれなければならない。
 現在は数10本の杉の木が成長して下草が密生し、当時の面影はまったくない。
 八幡宮が祀られていたのは射的場と関連する。
 射的場は鉄砲を撃つところだった。的と鉄砲の距離は15間だったという。八幡宮はその鉄砲を守護する神であった。八幡神は武勇の神である。萬記録もこの八幡を若宮八幡として記録している。
 祭礼のときはここで鉄砲が撃たれたのだが、後に述べる祈祷所の前に置かれた神輿は、鉄砲が12の的を射抜くまでは祈祷所から奥へは入れなかったという。
 木造の二の鳥居が東を向いて立つ。
 竜爪権現の時代から、二の鳥居から東に伸びる杉木立の道が正式の参道だった。だからこの杉の並木道を杉門前という。
 この参道は杉門前を経て布沢に入り、吉原に達していた。今は南の平山から竜爪権現に登る道がメインルートのように思われている。ここにも歴史の変遷がある。
 神楽殿もあった。祈祷所に向かって右である。今はその痕跡もないが、年に一度の祭礼の日、4月17日にはその跡地に仮設の舞台が立ち、カラオケが竜爪山に鳴り渡る。歴史は繰り返されているのである。
 祈祷所が見える(272ページの写真(u)。ここで祈祷が行われていたことは前に触れたが、明治維新の神仏分離以後、使用されなくなり放置されていた。昭和25年頃にはまだ腐った柱や床板があったという。
 若かった古本さんら青年団が、危険だというので、ロープをかけて力にまかせて取り壊した。
 参籠所が鳥居を入ってすぐ右にある。
 祈祷のための病人や心の病に冒された人々が滞在するところであった。それと向かい合わせの建物は、社人の親類の人々が経営する売店だったらしい。
 参籠所も今はない。また、萬記録には鐘搗堂があったことが記されているが、この絵ではすでに失われていたのか描かれていない。
再建の時代へ
 現在の本社は昭和63年11月6日に祈祷所の跡地に建てられたものである。盛大な竣工式を挙行する予定であったが、折からの昭和天皇のご不例で自粛されることになり、名も献納式とされた。穂積の神に本社を奉献する意である。
 再建に多大の貢献をされた横山もとさんが滝長門正のお孫さんであることは前述したが、彼女を顕彰する自然石の碑が現在の本社の向かって左に立っている。
 横山さんが穂積神社再建の決意を平山の氏子の人々に告げてから竣工までには長い経緯があった。それを書くだけで一册の小説ができあがるだろう。しかし、それはこの本の主題ではない。
東海自然歩道の憩いの場
 二の鳥居を入ったところには社務所がある。
 この社務所は昭和30年代に火災にあった。やはりハイカーの火の不始末が原因だったらしい。消防団が駆けつけたときは社務所はすでに焼け落ち、二の鳥居も下半分が焼けて火は上部に移っていた。高所のため消火に苦労したらしい。
 その後、社務所は長い間再建されなかった。毎年の例祭も社務所がなくては境内で執り行えない。細々と平山の神家で行なわれた。本社も社務所もなく、およそ神社とは呼べない荒涼とした穂積神社が約30年の長きにわたり続いたのである。
 現在の社務所は平成6年に建てられた。仕様はこの風景画の社務所によく似ている。
 日曜祭日には氏子の人々が交代で、朝から夕方まで東海自然歩道を利用する人々に湯茶の接待をする建物でもある。
 休日ともなると200人がここに立ち寄る。昼食を社務所内で取る人々も多い。最近のウォーキング・ブームを反映して約7割が女性という。
 また、ここは夏でも摂氏26度を越えない。神社の境内は標高800メートル弱である。涼を求めて車で登ってくる人々も多い。
 赤い袴と白い上着をつけた巫女さんがいないから、ジャンパーを着た「おじさん」の氏子たちが、無骨な手でこれらの人々に交通安全のお守りやお札を売ることになる。誰が売ろうと穂積の神の御利益に変わりはあるまい。
 ときに竜爪山の自然や竜爪権現・穂積神社の由来が氏子たちによって人々に語られることもある。ちなみに竜爪山は植物の宝庫でもある。ウラジロモミやチャボホトトギス、ランヨウアオイなど貴重な植物も多く、よい観察地でもある。シダ類以上で約千種類の植物があるという。
オウレン
黄連の群生地だった
オウレン
 この山の植物について語るとき、薬草の黄 連を欠かすことはできない。かつて社務所の裏にもオウレンが群生していた。キンポウゲ科に属し、「神農本草経」という中国の薬草の古典にも、重要なものとして「上品」と分類されている。
 春に白い花をつけ、根が苦く、これを煎じて服用する。消炎、解毒の作用があり、下痢、食中毒、扁桃腺炎などに薬効がある。健胃剤でもあり、食欲不振のときに服用すると効果があるという。
 しかし、残念なことに昭和50年代の乱獲と植林がこれを消滅させた。今ではわずかに農家の庭で栽培されている状況である。
 奇妙なことに竜爪山のオウレンは穂積神社の境内の、それも社務所の裏にのみ見られた。
 この植物は杉林の林下陰地で水はけのよい北斜面に群生する。だからオウレンの適地は竜爪山のいたるところにあるはずである。にもかかわらず社務所の裏にのみ生育していた。オウレンの価値を知る何者かが、この地へ運んできて移植したとしか考えられない。
 山伏が山に自生する薬草に精通し、今日なお多用されている和漢薬の中には、山伏の工夫によって生れたものが多いことはすでに記した。
 竜爪山に薬効著しいオウレンを移植したのは、熊野の山伏か、それとも権兵衛一族だったのだろうか。
ハイテク・トイレ
 最後に二の鳥居脇のトイレについて記す。環境庁が自然歩道を歩く人たちの便宜のために建設した環境汚染のおそれのまったくない気化装置付きのトイレである。7千万円を要した。3つの広い浄化槽が地下に埋設されていて、モーターが常に回転して汚物を処理している。
 国家と宗教との関係はややこしい。このハイテクトイレも穂積神社の境内にあるのだから、県が負担している電気料は穂積神社に支出すればよいのだが、それは物議をかもす恐れがある。
 そこで「竜爪山自然歩道整備委員会」という厳めしい名の団体を氏子たちが結成し、形式的にはこの委員会に県から補助金を支出する形を取っている。
権兵衛の昔に帰った穂積神社
 昭和63年の本社再建によって穂積神社は新しい時代を迎えた。もはや戦場における弾丸除けなどという物騒な神ではない。東海自然歩道がこの神のイメージアップに貢献している。国民的レジャーとなったウォーキングに一役買っている神なのだ。
 氏子の人々の努力もあって、神社の経営は軌道に乗りつつある。境内を立錐の余地もないほど埋め尽くした戦前の混雑はもう二度とあるまい。あれは戦時中のバブルだったのである。あってはならない繁栄だった。
 地味ではあっても、現在の穂積神社は着実に支持者を増やしている。開祖権兵衛の昔に帰ったのである。
 以上で銅版画の説明を終わる。もし、コンピューターグラフィックの技法を駆使して、この銅版画に色彩を施したら、壮麗な穂積神社の姿が現在に蘇ることだろう。