第3節 徳川家康公・東照大権現様
 すでに何度となく繰り返しているように、寛文縁起と樽系図の両文書とも家康への賛美と追従の思想で満ち満ちている。
 ところがこの家康への阿曲は留まるところを知らない。これからそのいくつかを明らかにしてみたいと思う。
 西奈村誌、駿河志料や望月光春さんの論文などには、龍爪権現に伝来する(あるいは伝来していた)という権兵衛の署名が記された年号入りの文書が掲載されている。まず、これらから見てゆこう。なお、文章はすべて現代語訳とする。

慶長13年の文書
 初めに「龍爪山開初の事」として、慶長12年の瀧氏自記という次の文書がある。

旗 神
 「龍爪山権現は慶長12年正月17日に始まった。この神は御城の守護神である家康公のはたかみである(後略)。
慶長12年丁未3月20日
龍爪山神主 権兵衛」

 慶長12年(1607)という年は、その2年前に将軍職を秀忠に譲って隠居し大御所となった家康が、完成した駿府城に移り住んだ年である。徳川家の歴史を記す徳川実紀ではそれが同年2月とあるから、上の文書はその1ヵ月後に出されたことになる。
 少し補足すると、寛文縁起には辛未の年正月17日に白鹿を撃って、樽の権兵衛が神がかりしたとある。
 ここに掲載した文書の日付は、彼のこの神がかりの日をもって龍爪権現開初の日としたものである。
 ただし、辛未は慶長の年号にはない。開初の年である慶長12年は丁未だから、この部分に関しては寛文縁起が書き誤ったと考えられる。
 「旗神」とは「いざ合戦の時には家康公に仕え、家康公の前にあって軍旗を捧げ持つ神」の意味であろうか。いずれにせよ、家康に忠義奉公の姿勢を示した文書に他ならない。
 なぜこのような文書を開祖権兵衛の名で発したのだろう。私はこの文書と、これが出された当時の社会の空気とは無関係ではあるまいと思う。
 慶長10年頃から家康は幕府内外に高姿勢で望むようになる。豊臣秀頼に対しても大阪から上京し、新将軍秀忠に挨拶をするよう促した。しかし、秀頼の母淀君はこれを断然拒否した。また、諸大名に対しても慶長12年以降、厳しく処罰するようになり、以後は連年いくつかの大名家が取り潰されてゆく。当然の結果として巷には食い詰めた浪人の姿が多くなる。
 大阪を中心に全国的に不穏な空気が漂い始めていたのである。大阪の住民は秀頼の上京拒否を聞くと、「すわ戦争か」と家財を運び出す騒ぎだった。
 したがって、慶長12年文書は、戦争勃発の不安をいち早く察知した龍爪権現が、寛文縁起の大阪夏の陣と同じように、天下が再び乱れて、徳川方が豊臣方と戦争状態に入ったさいには、ただちに家康摩下に馳せ参ずることを表明した文書に他ならない。
 それも龍爪山頂から、はるか下の駿府城にある家康に直接呼びかけるように誓っている。龍爪権現の精一杯の忠誠心の吐露である。
慶長15年の多き(瀧)権之丞名の文書
カミヤ
 二番目は西奈村誌が掲げる神家所有という文書である。なお、「神家」とは社人の家をいい、現在でも地元の平山では同地にある瀧氏の家をこう呼んでいる。

 「穂積山の神は、駿府静畑山の嶺にあったが(中略)、迫地(注…清浄の地か)を選び、龍爪山は静畑の北でもあるので、ここに移した。その後、国に変動はあったが、そのまま龍爪山の時雨ヶ峰に鎮座し、城の北の守り神となった(後略)。
慶長15年7月17日
多き(瀧)権之丞」

 年は慶長15年、こんどの署名者は権兵衛ではなく、彼の息子とされる権之丞である。樽系図では権之丞は樽望月氏を嗣いでいる。清地系図では権兵衛の次男である。
 文書の内容は、龍爪権現が静畑山から龍爪山に移った経緯を簡単に説明し、北から駿府城を守護する決意を表明している。いわば仏教における北方の守護神毘沙門天におのれを擬している。
 いったい、この文書はその駿府城守護の固い意志を誰に伝えようとしているのだろう。
 慶長15年に二代将軍秀忠は駿府城に父家康を訪れている。私はこれはその秀忠に宛てて出された文書の形式を取っているのだろうと思う。だからこそ、署名者も開祖権兵衛でなく、秀忠と同じ二代目の権之丞としているのである。
 権之丞に署名させたのは、家康から秀忠に将軍継嗣が行われたのにならい、龍爪権現社人の地位も権兵衛から権之丞へと移転したという同じ形式を踏んだものと考えるのである。
 そして、日常は江戸城本丸にいて、もちろん龍爪権現のことなど何一つ知らない将軍秀忠に、龍爪権現の由来を説明し、あわせて秀忠の父である家康への忠誠心をその息子秀忠に表明したと考えられる。
樽の権兵衛の死亡した正保元年の持つ意味
 このような家康追従の態度は単に文書のみに現れているのではない。家康が死去し、日光山に東照大権現として祀られることになった後になっても一貫して変わらない。
 樽系図で見たように、東照宮を勧請した甲斐竜王に、作者はわざわざ望月氏の祖先を住まわせてまで、望月氏が家康に忠義一徹の家柄であることを執拗に理解させようとしているのである。
 まず、樽の権兵衛の死亡年である。何度も述べたように正保元年とある。なぜこの年に彼は死亡したかである。
 これも日光東照宮と無関係ではない。家康に対し信仰に近い敬愛を抱いていた三代将軍家光によって、日光東照社は空前の規模の大改築を終えた。
 ここに眠る徳川家康に、朝廷は正保2年11月に東照宮の宮号を宣下した。東照社はここに宮号を得て東照宮に昇格し、皇室の神・伊勢神宮と並ぶ日本最高の社となった。
 権兵衛の死をこの前年に配置した意図は、慶長12年文書の「家康公の旗神」と権兵衛を位置づけた考えを踏襲したものであった。
 最高の神階を得た東照宮に鎮座することとなった東照大権現に1年を先んじて死ぬことによって、権兵衛はあとからやって来る家康を迎え、黄泉の国にあっても旗神として、家康の御前に仕える意志を明白にしたのである。
 なお、正保元年9月16日に死んだとされる樽の権兵衛については後にくわしく述べることにする。
龍爪権現の祭礼日と藤原正久名の文書
 次に龍爪権現の祭礼日である。龍爪権現の祭日は1月、3月、9月の15日から17日のそれぞれ3日間であった。
 3月17日はいうまでもなく家康の祥月命日である。古い時代の久能山東照宮の祭礼の日は、いろいろな説があって必ずしも明かではない。もっとも、祭が厳格な意味での祭として、家康の霊を祭るものであれば、毎月欠かさず17日に行われていた。ただ、庶民の参詣を許す祭礼は1年に限られた日であったらしい。
 したがって、龍爪権現の祭はこの久能山東照宮の祭に合わせて定められたと考えて差し支えない。
 熊野三山の祭日は本宮大社が4月15日、速玉大社が10月15日、那智大社が7月14日である。ところが熊野権現系であるにもかかわらず龍爪権現は、それに習わずに家康の命日をもって祭日と定めているのである。
 ところで、この祭日を定めた文書がやはり神家所有として西奈村誌に掲載されている。それにはこう記してある。ただし、年月日が記載されていない。

 「(前略)神事は毎年正月15日より17日まで、3月9月同断。年々三度の例祭。祈念は天下太平、国家安穏、御武運長久、五穀豊穣(後略)
(年月日なし)
社主 藤原正久瀧氏」

 実はこの文書は少し妙なところがある。というのは、署名人が藤原正久となっていることだ。藤原の姓 はのちほど延享縁起の部で説明するとして、問題は名前の正久である。
 古今萬記録には、平山瀧氏の祖先の1人として大和守正久という社人の名が記録されている。
 ところが、正久はこれもあとでくわしく説明するが、萬記録には一回しか名が現れず、元禄3年に京都に上ったという記録のみである。正久の実在は疑わしいのだ。
 だが、彼が架空の人物であるにしても、正久が系図の上で瀧氏の社人として最古であることに変わりはない。
 文書は上に挙げた祭日のほかに、鉄砲祭のことや龍爪権現の末社の由来も述べている。
 私は、この文書は平山瀧氏の最古の社人と伝えられている大和守正久の名を借りて、龍爪権現の祭礼の日を家康の命日と同日に定めた経緯を語り、祭日をよりいっそう権威あらしめたのだろうと思う。存在のはっきりしない正久に語らせた文書だから、年月日を明らかにしなかった(あるいはできなかった)のであろう。
 最後にもう一度、先ほど挙げた慶長12年の権兵衛名文書と慶長15年の多き権之丞名文書、それに寛文縁起で権兵衛が神がかりした日付を見ていただきたい。
 いずれも17日である。もう説明は必要ないだろう。これらも意識的に家康の命日の日付を用いているのである。それは今しがた述べた祭日の権威づけと同じ思想であることはいうまでもない。