第4章 寛文縁起のもとの形は何か
第1節 権兵衛と瀧藤兵衛との争い
 清水市吉原地区は竜爪山の東側に位置する山深い地域である。清水市内から車でわずか20分ほどのところにこのような山村があるとはと、初めてここを訪れる人は一様に驚きの声を上げる。ここは穂積神社からは尾根伝いに徒歩で約3時間である。  この吉原に先に述べた村上天皇伝説とは別に、瀧藤兵衛という人物の不思議な伝説が残っている。彼は寛文の頃の人物といわれるが、その経歴といい、当時の吉原村を追放されて立ち去る経緯といい、不可解なことが多過ぎるのである。
 彼は吉原村でなく、北に山を越えた隣村の布沢村(現在の清水市布沢地区)の出身であるのに、吉原村と布沢村の間に生じた山論では、吉原村のために骨身を惜しまず努力したのである。山論は裁判に持ち込まれ、江戸幕府の評定所の判決まで約20年の年月を要したものの、藤兵衛の見事な才覚と知恵で吉原村は布沢村に勝ったのである。
 実際に現地を訪れてみると、たしかに自然の境界線ともいうべき布沢川や山の尾根が吉原と布沢を分けるのではなく、これらを北に越えて、すなわち布沢村分にまで吉原村分の山が食い込んでいるように見える。
吉原と布沢
吉原と布沢
 ところが、彼は彼に恩義を感ずべきその吉原村から追放されてしまう。そして髪を剃り、坊主となって富士の裾野のほうに去って行ったという。
 これだけのことであれば、この話は当時の吉原村民の不人情ということで説明がつくのであろうが、実は藤兵衛追放の前後の話が聞く者に奇妙な印象を与えるのである。それというのも、追放の理由がさまざまで、しかも納得がゆかないものばかりだからなのだ。彼が布沢村から吉原村へ悪い病をもたらしたから嫌われたといい、また山論に勝った吉原村が土地が広くなって、その年貢の急増が吉原村の人々を苦しめる結果となり、それで人々が彼を恨んだのだという。
 あるいは山論が長期の裁判沙汰になったので、慕府役人が実地見分のため江戸と吉原を何度となく往復した。そのための駕篭代や滞在費や接待費そして書類作成費などなど、吉原村は山林を布沢村より広く取得した以上に余分な出費を強いられ、それが藤兵衛に対する反感を強めることになったという。
 私が藤兵衛について話をうかがったのは吉原地区にお住まいの瀧沢さんである。瀧沢さんは吉原瀧氏の分家と伝えられているが、ご本人の話では、分家ではなく吉原瀧氏とは昔から親戚同様のつき合いをしている家だという。吉原瀧氏の墓所は同地区内の善原寺近くにあるが、ふだんは瀧沢さんが掃除をしたり、香華を手向けてお守をされている。
 その瀧沢さんの話であるが、昔は山林の価値などは取るに足らなかったという。その例として次のような話をされた。
 昔は山の面積を測量するのも、石を投げて地面に落ちたところが一丁、それからまた石を投げて落ちたところが一丁というように大ざっばな方法だったという。
 別の方法は、山中で2人が谷を挟んで立ち、1人がふつうの大きさの声で「オイ」という。決して「オーイ」と叫んではいけない。あくまでも人と会話をするような調子で「オイ」という。
 これに対して相手は「ヤイ」と答える。その「ヤイ」も、「オイ」と同じことで、叫んではならない声である。両者の「オイ」と「ヤイ」が聞こえる地点と聞こえなくなる地点の境が一丁だというのである。もし大声で「オーイ」、「ヤーイ」と叫ぶと、その声が山にこだまして帰って来てしまうから測量ができないそうである。
 「オイ、ヤイ」の話はともかく、年貢の急増や費用負担の増加を恐れるのなら、はじめからさほど価値のなかった山をめぐって山論など起こさなければよかったのだし、ましてや裁判に持ち込むこともなかったのである。また、裁判費用にしても悪くとも布沢村との折半だろうから、吉原村だけが負担すべき性質のものではない。
 また、次のような理由が挙げられている。藤兵衛が山論を吉原側の勝利に導いたさいに取った手段を見て、吉原の人々は彼のあまりに明晰な頭脳と真面目な人柄に恐れをなし、追放したという。
 それはこうである。彼は問題の山に吉原村が有利になるようにあらかじめ境界線を引き、その境界線に沿って木炭を埋めておいた。それも裁判が開始される20年も前にである。
 そして、幕府の役人が現地を見分したさいに、その炭は山論が生ずるはるか昔から埋まっていて、その炭が両村の境界だという言い伝えがあると主張して、吉原村を勝訴させたのである(この山論のさい作成された絵図面が現在も吉原地区に残っている。また江戸幕府評定所の判決文もある)。
 このことは現在の布沢地区の人々にもやや変形して次のように伝えられている。
 吉原、布沢両村民が現地に集まり、立ち合いで山の境界を定めようとしたところ、吉原側は立ち合いを明日とすることを提案した。これを承諾した布沢村民が引き上げたところ、吉原村民はそのまま居残り、夜を徹して勝手に境界線を引いて木炭を埋めてしまい、それが布沢村の敗訴の原因となったという。
 また、別に次のような話でも伝えられている。ただし、これは吉原地区での話だ。
 両村民が早朝、日の出の時刻にあわせて問題の山の自村側の麓を出発し、山中で双方が出会ったところを境界と定めるという約束を交わした。ところが、吉原村民は近道を知っていて、布沢村民より早く山の尾根を越えて、布沢側に入り、そのまま境界が定まってしまったというのである。
 これらの話もおかしい。山など大した価値がなかったというのなら、吉原村が策を弄して山の取り分を布沢村より大きくすることはなかったのだ。
瀧藤兵衛の像
瀧藤兵衛の像
 もっとも、この部分は布沢地区の一部の人々の間では「吉原村民が近道を知っていて布沢村民より早く尾根を越えたのではない。吉原は布沢より南にあるうえに、両村間には高い山があるので、日の出時刻が布沢より吉原のほうが早かったためだ」と語り伝えられている。
 しかし、境界線の問題を度外視しても、藤兵衛が頭がよくて真面目だったから村八分に遭ったというのでは少しも説明になっていない。
 先ほどの瀧沢さんは藤兵衛には何をするかわからない不気味なところがあり、それが追放の原因になったのではないかとおっしゃる。しかし、悪い病をもたらしたという追放の理由については瀧沢さんもただ首をかしげるのみである。
 藤兵衛を迫放した後、庵原の歴史「一村一家」の説明によると、「吉原村と布沢村の仲は好くなることなく明治年間まで嫁のやりとりも行われなかった。また、吉原村は長らく生きぼ(栄)えることができなかった」。
 村人はこれを藤兵衛のたたりとし、あらためて藤兵衛を再評価して昭和8年に善原寺に藤兵衛堂を建設、ここに彼の木像を安置してその霊を祀った。藤兵衛は名誉回復を果たしたのである。善原寺を訪れると、山門に向かって右に小さい堂があり、そこに藤兵衛の像がある。
複雑な瀧藤兵衛の伝説
 右に記したように、瀧藤兵衛の人物像には理解しがたいことが多い。だが、それに輪をかけて問題の山論が人によってさまざまなのだ。以下、すでに述べた伝説とは別に次のような話が伝わっているので紹介しよう。これは布沢にお住まいの農家のご夫妻にうかがったものである。
 その話によると、藤兵衛は姓が「瀧」ではなく「片平」といい、吉原村にくみして山論を吉原に有利に導いたのだという。しかも、彼が炭を埋め込んで両村の境界線とした場所が、かつて「論所」という古地名で残っていたそうである。
 ところがご夫妻の話では、この山論はもともと存在しなかったのだともいう。話はこうである。布沢村は江戸時代(ただし年代は特定できない)、上七軒(上布沢。布沢川の上流。したがって、吉原との境界に近い)と下八軒(下布沢)に分かれていた。そのうち上布沢の七軒が吉原に移住し、そのとき彼らが所持していた山も吉原分にかわったというのである。要するにそれだけの話だというのだ。
 私にはどちらの話が真実なのかを判断することはできない。これまで書いた話も江戸時代から語り継がれている間に歪曲されたり、拡張されたりして歴史の真実からますます遠ざかってしまっているのだろうと思う。
藤兵衛も山伏だった
 ところで、「一村一家」は、瀧藤兵衛は祖先が甲斐の武田氏の侍の出であり、その姓が物語るように、龍爪山穂積神社を代々守ってきた望月氏二家と瀧氏二家にゆかりの人としている。
 私はこの瀧藤兵衛伝説をはじめて知ったとき、彼の行動に通常の人間にないものを感じた。
 たとえば、追放の理由となったとされる悪病をもたらしたこと、髪を剃って坊主の姿となり、富士の裾野のほうに去って行ったこと、なぜか人に恐れられるような雰囲気を持っていたこと、常人にはない知恵の持主であったこと、村人が村内に生じる悪事を藤兵衛のたたりと考えたこなどである。
 私は瀧藤兵衛も瀧氏一族の1人として山伏だったと思う。
 追放された理由に悪病をもたらしたなどということも、彼が山伏であったと考えれば納得がゆく。彼の祈祷やまじないが悪病退散に効果がなかったか、あるいは彼の行動が新しい疫神を村内にもたらしたと誤解されたのかも知れない。
 また、山伏は前にも記したように、山中で修行を続け、里の人は山伏に別次元の人という印象を持つ。近寄りがたいものを感じる。薄気味の悪さである。
 望月氏の系図のところで説明したように、各地を歩いているから知識も豊富である。境界線にあらかじめ木炭を埋めて置く知恵などは、いかにも山を熟知した山伏らしいといえるだろう。だから、吉原村民の間に山伏の藤兵衛を追放した記憶が、彼の恨みという形で残り、それが村内の対立を説明する理由に用いられたのだと思う。
文書が語る権兵衛と藤兵街の争い
 それにしても山論以後の両村に残った深いしこりは異常である。山一つ隔てた隣同志の村なのである。
 そればかりではない。吉原地区には、布沢地区との境界に近接する場所に「堀り切り」という俗称の地名があり、これは山論のさいに両地区の通行を遮断したことから生じた名だという。山論一つで両地区の交通を止めたというのもやや常軌を逸している。また、隣村であるにもかかわらず、近頃まで婚姻もほとんど行われなかった。
 なぜ、怨念ともいえる根深い対立の感情が、両村民の間に残ってしまったのだろう。
 このような深刻で長期にわたる対立は宗教上の争いからもたらされたもの以外にはない、と私は考える。瀧氏内部の宗教上の路線をめぐる抗争に吉原村と布沢村が巻き込まれたのである。
 なぜそのような推定が成り立つのか。その理由は寛文縁起に書かれている。
 寛文縁起の最後の部分には、龍爪権現に関係する村々の主だった人々、すなわち庄屋や組頭といった村役人の署名が並んでいた。これをもう一度列挙しよう。
中河内
布沢村
黒川村
平山村
庄屋
同子
庄屋
組頭
庄屋
次左衛門
太郎左衛門
新左衛門
片平五郎左衛門
権七郎
甚左衛門
六郎太夫

 このなかの布沢村の庄屋・新左衛門と組頭・片平五郎左衛門の名に注目する必要がある。
 さきほど、私は吉原村と布沢村の山論を説明した。この山論の経緯をまとめたものが、平成7年に発行された『吉原古地図読本」である。これには両村の主張や判決文のほかに布沢村側の訴状が掲載されている。ただし、原典の所在は不明である。
 その訴状で布沢村は山林の境界争いにおける吉原村の非を鳴らし、幕府に善処方を求めている。要約すると次のようになる。また、そこに署名人の名が連ねられている。それも記す。

「恐れながらお訴え申し上げます。
 吉原村と布沢村が争っている山につきましては、5年前にお2人の担当のお武家が両村の百姓をお呼びつけになり、係争中の山には境界を設けないでおくので、両村ともこの地域での作付は禁止とご命じになりました。しかし、その後吉原村は我がままを致し、作付けも行い、布沢村が迷惑しております。
 なにとぞお指図のほどを仰ぎ奉る次第にございます。
布沢村


庄屋
組頭
新左衛門
五郎左工門
四郎左エ門
利三郎
万治2年亥3月22日        」

 この訴状が提出された年は万治2年(1659)である。寛文縁起の日付は寛文元年(1661)正月吉日である。両文書のへだたりはわずか2年である。
 訴状の文書にも布沢村庄屋として新左衛門が、そして同じく組頭として五郎左衛門が署名している。すなわち、寛文縁起と訴状の2つの文書に同じ布沢村の庄屋新左衛門と組頭五郎左衛門の名があることになる。
 両文書の日付が2年の差しかないことを考慮すると、短い2年の間に2人とも代替わりをしたとは考えられないから、この2人は同一人物と見なして差し支えあるまい。
 そればかりではない。寛文縁起には中河内村、布沢村、黒川村、平山村の村役人の署名はあっても、吉原村の村役人の署名がない。寛文縁起に署名する村々から吉原村は除外されているのである。
 このことをどのように考えればよいのだろう。布沢村の名主と組頭は、寛文縁起にも山論の訴状にも名を連ね、対する吉原村は寛文縁起には村役人が1人も名も出していない。
寛文縁起は権兵衛派の勝利宣言の書
 私は寛文縁起は、権兵衛派の瀧氏一族や望月氏とそれを支持した布沢村はじめ中河内村、黒川村、平山村が、瀧藤兵衛と彼を支持した吉原村に対しておこなった勝利宣言の書だと思う。
 藤兵衛を異端と決めつけ、寛文縁起に書かれた内容が正統であることを宣言した書なのである。
 その内容とは、山伏の権兵衛が龍爪権現の開祖であり、その正統な社人となる資格のあること、そして龍爪権現こそが時の絶対者・徳川家康によって承認され、その御利益が担保された神であることである。
 布沢村の村役人はそれを認めた。そして権兵衛派の勝利に間違いのないことを、ほかの中立あるいは権兵衛派だった考えられる平山村、黒川村、中河内村の村役人とともに保証するために寛文縁起に署名したのである。敗者藤兵衛を支持した吉原村が除外されるのは当然である。
 それは寛文縁起の日付にも現れている。寛文元年正月吉日とある。縁起を担ぎ、おめでたく1が連続する日付で勝利を宣言し祝ったのであろう。

新発見! 寛文縁起の確実性を証明する棟札
須賀神社の棟札右下隅に小さく∧六郎太夫∨とある
須賀神社の棟札右下隅に小さく(六郎太夫)とある
 ところで、次に進む前に寛文縁起の署名者の1人、平山村の六郎太夫について、その実在を証する資料がある。これについて述べておこう。
スサノオ
 静岡市平山には穂積神社のほかに氏神社として須賀神社がある。須佐男命を祀る。
 この社の解体修理が行われることになり、この6月に天井をはがしたところ、屋根裏から多くの棟札が発見された。
 その一枚、寛文8年(1668)の銘のあるものに「平山村 庄屋 六郎太夫」と小さく墨書されている。寛文縁起の「平山村 六郎太夫」と同一の名である。
 寛文縁起が書かれたのが寛文元年(1611)だから7年の差である。同一人物の可能性もある。あるいは代が替わっているかも知れない。
 しかし、襲名したにせよ、しなかったにせよ、寛文縁起が作成されたころ、平山村の庄屋に六郎太夫なる人物が存在したことを、この棟札は物語るのである。
 寛文縁起が確実な史料であることが証明されたことになり、それとともに今日の静岡市平山地区が、開創当初から龍爪権現や権兵衛に好意的であったことをこの史料は示しているといえよう。
 これは平山村に関するものだが、もし他地区、すなわち当時の黒川村や布沢村、中河内村などでも今後、このような史料が発見される可能性がある。
 なお、平山には六郎太夫の子孫の方が健在であり、望月六郎さんという。その名の「六郎」は、先祖の六郎太夫の名からお取りになったとのことである。
熊野修験と富士村山修験の対立
 本論に戻る。
 権兵衛派と藤兵衛派の宗教上のどのような異端と正統の争いだったのだろう。それは同じ修験道ながら、熊野修験と富士村山修験との対立だったと考えられる。
 まず村山修験について説明しよう。
 富士山の修験道は役行者に始まるといわれる。平安時代初期の弘仁年間に撰述された日本霊異記には、役行者が罪を得て伊豆大島に流され、夜な夜な富士山頂に現れて修行をしたとある。もちろん、これは他の霊山と同じく伝説の域を出ない。逆に、富士山に修験道がある程度行われるようになってから、役行者がその始祖として語られるようになったものであろう。
 富士修験の先駆者は末代上人と伝えられている。彼は数百回という富士登山を重ね、山頂に大日寺を建て、宮中の人々が書写した大般若経を埋経した。平安時代の後期である。
 彼の修験と布教の活動は富士山にとどまらず、加賀白山はじめ北陸、関東、近畿に及んだ。そして、ついに鳥羽法皇の知遇を得るに至った。鳥羽法皇といえば、生涯に熊野詣を21回もおこなった修験道の強信者である。
ミイラ
 末代上人は富士山麓の村山に山伏たちの住む僧坊を建てて活動を続け、即身仏となった。大棟梁権現が彼を祀った建物であった。
 彼以後の村山修験は村山大鏡坊の祖となる頼尊を初め、上人を慕う多数の行者たちによって引き継がれ、厳しい山中の修法が続けられてゆく。
 逆さづりの行をはじめ、米粒の少ない粥のみの食事。厳寒の中での水行。小木の行は重い薪を背負ったまま山籠りの小屋の前で何時間も般若心経を朗唱するものである。夜を徹しての山行。その修行の凄まじさは富士宮市史に余すところがない。
 この村山修験の勢力を政治に利用したのが今川義元だった。彼は武田信玄が山伏を活用したように、村山修験者たちをスパイに利用した。山伏は諸国を自由に通行できるからである。そして義元は彼らの利用価値に着目してあつく庇護した。日本全国から富士山へ修行のために訪れる修験者たちから、入山料として山役銭を徴収することも村山修験者に認めた。
 そればかりではない。義元は村山修験者に駿遠両国の修験者取締の権限を与えた。山伏たちの持つ情報の一元化である。こうして富士行のために富士山へやって来る山伏たちは、同じ修験者の村山修験によって管理され統制されることになる。
 義元は一方では熊野修験をも尊崇した。宗家の足利家の影響があったことは前にも書いたが、義元も彼の軍事目的に反しない限りにおいて、熊野権現に近づいていたらしい。
 西奈村誌に次のような記事がある。「(龍爪権現では)祭典ごとに十五、十六夜、湯立行事をなし、今川氏国方と称する奉幣使が3月17日に稲川太夫を以て、籾俵十二俵、雑穀十二俵を献上する。天文12年まで(以下略)」。
 今川氏が龍爪権現に毎年の祭典のたびに奉幣していたものが、天文12年以降はそのような例がなくなったという記録である。なお、この部分は望月光春さんの論文にくわしい。
 その前年の天文11年(1542)、義元は遠江と駿河の山伏の取締りを厳重にすることを村山修験の各坊に命じている。義元はこの時期に熊野権現から村山修験を主とした宗教政策に変更し、スパイとしての村山修験の活用に重点を置くようになったのであろう。それが熊野権現系の龍爪権現への奉幣使廃止となって現れたものと考えられる。
 今川氏に氏国なる人物はいない。かりに、これが国氏だったとすれば、今川氏の祖の今川国氏である。父祖から続いていた龍爪権現への奉幣を取りやめ、村山修験を重用することにした義元の決意が並々ならぬものであったことを物語るといえよう。
 しかし、義元が桶狭問で死んだ後、徳川家康が駿河を領有するようになると情勢は一変する。富士浅間神社を重視する家康および江戸幕府は、村山修験を徐々にではあるが、徹底的に衰退させるのである。
 このような政策をとった背景には、のちに述べる山伏政策のほかに古くから村山修験と対立していた富士浅間神社が民衆から尊崇されていたことを、幕府として無視できなかった事情もあるらしい。いずれにせよ村山修験は江戸幕府の開府から冬の時代に入ったのである。
 そうはいっても急激に村山修験が衰えたわけではない。家康は諸寺社領の安堵と跡職相続を朱印状により認可するが、村山修験に対しては決して現状維持以上には出なかった。
 幕府が村山修験に牙をむいたのは、明暦元年(1655)から延宝7年(1679)の24年の長期に及ぶ浅間神社・村山修験間の入会地をめぐる訴訟事件である。このとき、幕府は一方的に浅間神社側の主張を認めた。村山修験は窮地に追い込まれ、その後は衰退の一途を辿る。
 駿河国新風土記はこういっている。かつて村山には戸数が600戸ほどあったが、文政10年(1827)には、山伏、社人の他は戸数は2戸しかない、と。
藤兵衛派の敗退と権兵衛派の龍爪権現布教
 両派の争いは、このように村山修験が衰退する直前の事件だったのである。
 藤兵衛はいまだ今川時代の栄華の余光が残る村山修験を受け入れることを主張し、これに対して藤兵衛以外の瀧氏と望月氏は、権兵衛を中心として一族の出自にも関りが深い熊野権現による教線を主張して対立したのである。その結果が藤兵衛の敗退となり、彼は熊野権現派の布沢村から追放され、吉原村に移って新天地を開拓しようとした。
 村山修験を行うためには、宗教以外でも吉原村に貢献する必要がある。それが、吉原村と布沢村との間に生じた山論のさいの藤兵衛の活躍である。
 山論に勝訴した吉原村は一度は藤兵衛を受け入れた。しかし、結局は吉原村の人々も藤兵衛の村山修験を受け入れなかった。これが藤兵衛の吉原を去ることになった理由である。前に述べたように、彼の祈祷の方法に問題があったのかも知れない。あるいは藤兵衛の山伏としての人柄や風貌が吉原村には受け入れ難いものがあったのだろうか。
 布沢地区には次のような伝承が残る。
 ここにはかつて「寺の入」という古い字名があり、そこに寺があった。布沢地区ではこの寺の境内を含む土地をめぐって吉原・布沢両村の境界争いがあったと伝えられている。この寺はことによると村山修験の寺だったことも考えられる。両村の山林境界に関わる争いとは、この寺地の帰属をめぐるものだったのだろうか。
 また、吉原地区にはかつて「神沢原」という古い地名が残っていた。そして両村の山論はこの「神沢原」の争奪だったのかも知れないという。もし、そうだとすれば、「神沢原」もまた神に関わる地名である。両村の山論が宗教上の争いであったことを支持する傍証になるだろうか。
 敗れた藤兵衛は頭を丸め、富士に向かって去って行く。剃髪は村山修験者の姿である。彼らは僧形であった。藤兵衛は姿を村山修験者に変えて、村山を目指し吉原を後にしたのである。
 藤兵衛の去った後、吉原村には再び異端を克服した権兵衛派の瀧、望月両氏の布教が浸透してゆく。
 そのさい両氏が用いたのが寛文縁起であった。両氏は権兵衛神がかりの不可思議さを説いて龍爪権現の霊験を語り、あわせて徳川家康によって御利益は保証されているとして、龍爪権現の信仰が有利であることを吉原村民に説いたのである。ことによると村上天皇伝説も利用されただろう。
 権兵衛派と藤兵衛派との争いは、山伏から龍爪権現を祀る社人への脱皮を図る権兵衛派と、富士村山修験に固執する藤兵衝派との、いわば革新派と保守派の間の葛藤だった。そこには後に述べるように、江戸幕府の宗教政策が濃い影を落としていた。
吉原や平山の家康伝説
ヒキョウ
ヒキョウ
 ところで吉原地区には徳川家康にまつわる伝説が多い。曵 尾という地名は、家康が「比 興な奴」といったことから生まれたという話である。
 また、鉄砲の上手な人がいて、家康の狩の勢子をしたという。ほかにも家康が身を清めて祈願したという清水があった庄司沢や権現様などの地名が残る。
 地元の善原寺には家康の娘・萬姫の眼病平癒の信仰譚も伝わる。家康が萬姫のために大平の薬師如来に参詣しようとしたが、日が暮れたので、ここ吉原にとどまって住職に祈祷を依頼したというものである。
 もっとも家康伝説は吉原地区のみではない。静岡市の平山地区や瀬名地区にもいくつかある。たとえば、平山には家康が狩に来たという話がある。
 また、歩けなくなるまで歩いた範囲の土地を与えるといった家康の言葉を信じて、そのとおりに首尾よく広い土地を得た地元民の話もある。これは瀬名地区の話だが、トルストイの民話に似ている。
 平山地区では駿府城の石垣に組む石は長尾川から運び出したといわれている。家康伝説は、この事実と関連があるのかとも考えられる。
吉原の薬師堂にまつわる多くの疑問
 だが吉原地区の場合にはやや異質である。平山や瀬名のような単純な家康伝説ではないのだ。
 善原寺のかたわらに建つ薬師堂の本尊・薬師如来は、全国的に広がる薬師信仰とどう重なるのか、あるいは萬姫(家康にこのような名の娘がいたという史料はない)の眼病治癒の伝説も、眼の仏としてこれまた日本の広い範囲に分布する薬師信仰とどう結びつくのか。
 そして何よりも、これらが家康の薬師如来説や申し子説と関わりはないのか、など疑問は尽きないのである。
 善原寺の山門をくぐると階段があり、これを登り詰めたところに薬師堂が建つ。いわば山門から一直線の位置に薬師堂があるのだ。そして寺の本堂は階段の右手にあたる位置にある。見方によっては、山門と薬師堂とが一体の伽藍配置なのである。
 ふつう、山門の後方には本堂があるというのが、我々が歴史で得た寺の建物配置についての知識である。四天王寺式とか法隆寺式というのがそれである。
 ところがその本堂にあたる位置に薬師堂が建っている。これはどう考えるべきなのだろう。
 薬師堂の偏額には「瑠璃界」と書かれている。朝鮮通信使の筆という。瑠璃界とは薬師如来の住む浄土である。
 そういえば、善原寺は清水市興津の臨済宗清見寺の未である。その清見寺には江戸時代、朝鮮通信使がしばしば立ち寄っている。ここには戦国時代に人質の身だった家康が住んでいた。そして、寛文縁起と樽系図は家康に忠誠を誓った書という一面を持っているのである。
 私にはこれら一連の疑問に答える能力はまったくない。速断が許されるべき問題ではない。だからこれからの課題として残しておくことにしよう。
権兵衛に乗り移った龍爪権現
 もう一つ。権兵衛が龍爪権現を奉持するようになったのは、彼が神がかりの状態になったとき、彼に龍爪権現が乗り移ったからだろう。それは、ノノーだった彼の母が、かつて行なっていた神降ろしである。
 修験道の開祖の役行者が金剛蔵王権現を感得したように、権兵衛は恍惚状態の中で龍爪権現の示現を受けた。
 古く平安時代から、龍爪権現すなわち両所権現は熊野三山、とくに速玉大社と那智大社の駿遠両国内にある荘園の人々によって祀られていたことはすでに記した。しかし、その荘園が武士の手に渡ると、この神を祀るべき人々も四散し、いつかその名すら忘れられてしまった。それが権兵衛に至って、再び龍爪権現として権兵衛に神がかりしたのである。
 そして、この龍爪権現の命令か、あるいは権兵衛の自発的な意志により、彼が社人となってこの権現を龍爪山上に祀ろうとしたのであろう。
 ところが、そのような権現を認めようとしなかったのが富士村山修験の藤兵衛派であり、それが両者の対立の原因になったと私は推定するのである。