第3章 熊野三山と龍爪山
第1節 熊野権現と山伏
 私はこれまで熊野三山、熊野権現、修験道、山伏などという言葉を何度となく繰り返してきた。ここで、改めて熊野や山伏について説明することにしよう。
 それは今後の記述に必要があるばかりでなく、いまだ謎のままの薬師岳と文殊岳、それに龍爪山の名の由来にも関わるからである。以下、これまで書いたことの重複をいとわず、熊野三山と修験道について述べることにする。
熊野三山とは
 まず、熊野三山とは現在の和歌山県の南部、熊野と呼ばれる地にある熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社をいう。三社の成立は至って古く、伝承では、もっとも新しい那智大社でさえ仁徳天皇の御代の創建と伝えられている。
 三社が確実な記録に現れるのは奈良時代からで、速玉神と牟須美神(ムスビ神・結び神)に神封(神の領地)を施したとある。
 はじめ速玉神と結び神は、ともに新宮市にある神倉山の神座石に降臨した。そのため、本宮大社の神とは別に、両神合わせて「両所権現」と呼ばれていた。それがのちに牟須美神は那智に移り、那智の滝の神である飛滝権現とともに那智大社の主神となった。そして速玉の神は現在の新宮市の速玉大社に祀られた。
 一方、本宮の神は家津美御子神あるいは証誠菩薩と呼ばれるようになる。家津御子とは「木ツ御子」で木の神格化である。
 また速玉は海に関わる神を、そして那智大社の「結」は「産」で、産霊神と考えられている。「産」は、結び神が女神のイザナミ神とされていることから生じた観念だろう。
 果てしなく続く山々を覆う緑の生み出す山幸と、豊かな熊野灘の海幸に恵まれた熊野から生まれた神々である。
 三社は創立当初は独立していたが、11世紀から12世紀には連合体を形成して相互にそれぞれの神を祀るようになり、ここに熊野三山が成立する。
神仏習合による熊野三山の仏たち
スイジャク
 熊野三山は早くから神仏習合の影響を受け、本地 垂迹説によって本宮の家津御子神(クニトコタチ命)は阿弥陀如来、新宮速玉の速玉神(イザナギ命)は薬師如来、那智の結び神(イザナミ命)は千手観音に習合し、これらの如来や菩薩がそれぞれの神の本地となった。そして、熊野の神々は熊野権現と呼ばれるようになった。
 ところで、権現とは人間の目では見ることのできない仏や菩薩が、目に見える形を取って人々の救済のためにこの世に姿を現すことをいう。ふつうは本地垂迹説によって、仏教の仏菩薩が日本の神々に姿を変え、この世に出現したという意味である。
 三山は共同してこれら三柱の主神を祀り、また同じ五所王子や飛行夜叉、米持金剛などの四所明神を配し、この眷族の数が九つあることから主神の三柱と合わせて、熊野十二所権現が成立する。
 十二所の神とその本地の仏菩薩を表に示すと次のようになる。

熊野十二所権現の神と本地の仏・菩薩

名称神名本地の仏・菩薩
三所権現両 所
権 現
結び神
速玉神
イザナミ命
イザナギ命
千手観音
薬師如来
証 誠家津御子クニトコタチ命阿弥陀如来



若 宮
禅師宮
聖 宮
児 宮
子守宮
アマテラス大神
アメノオシホミミ命
ニニギ命
ヒコホホデミ命
ウガヤフキアエズ命
十一面観音
地蔵菩薩
竜樹菩薩
如意輪観音
聖観音



一万宮
十万宮
勧請15所
飛行夜叉
米持金剛
クニサツチ命
トヨクムヌ命
ウイジニ命
オオトノジ命
オモダル命
普賢菩薩
文殊菩薩
釈迦如来
不動明王
毘沙門天
注 @三所権現 + 五所王子 + 四所明神 = 十二所権現
  A一万宮と十万宮はどちらかが選ばれる。
 人によっては、本地垂迹説は思想体系のまったく異なるインド発生の仏教と日本の神道を折衷したもので、いわば木に竹を接いだものであり、日本人の思考の怠慢だと厳しく非難する。
 たしかにその一面はあるのだろうが、庶民にとっては舌を噛みそうな名前の、馴染みの薄い日本の神々(たとえばアマテラスオオミカミ、アメノオシホミミノミコト、ヒコホホデミノミコトなど)よりも、十一面観音や地蔵菩薩のほうがはるかにわかりやすい。
 それに、これらの神を信じれば御利益があると聞かされても、名さえ満足に覚えられない神の御利益より、阿弥陀さまは臨終には向こうから迎えに来てくれて極楽へ引き取ってくれる仏さまであり、お地蔵さんは死んだわが子が三途の川原で鬼にいじめられていると助けてくれる、観音さまはさまざまに姿を変えて、自分たちのどんな願い事でも叶えてくれる、助けを求めればすぐに駆けつけてくれる菩薩だと聞かされた方がありがたみがあるし、具体的である。神々の御利益は同じ御利益でも天下太平、国土豊饒、諸人快楽、怨敵退散など抽象的で取り付きにくい。
 このようなことで本地垂迹説は日本人の心に深く浸透した。熊野十二所権現はこの本地垂迹説を活用して独特の神々の世界と秩序を形成し、日本人の信仰心をたくみに捉えたといえよう。
 もう一つ、熊野権現はほかの神々と違って不浄を厭わなかった。したがって女人禁制もなかったし、人に忌み嫌われた病人も受け入れた。小栗判官と照手姫の物語は時宗の僧の手によって、けがれに対しオープンな熊野権現を広く全国に知らしめることになる。「蟻の熊野詣」の素地はすでに熊野権現の神格に胚胎していたのである。
蟻の熊野詣
 熊野詣として熊野三山すなわち本宮、速玉、那智を巡る風習は、すでに12世紀の貴族の日記に記されている。そして熊野詣が隆盛になるにともない、京大阪から熊野本宮に至る道筋に九十九王子という休憩所と熊野三山遥拝所を兼ねた施設が設置されるようになる。
 延喜7年(907)に宇多上皇が熊野に詣でて以来、歴代の上皇たちの参詣が頻繁に行われ、白河10回、鳥羽21回、後白河35回などを数えるに至る。上皇たちは熊野三山の財政的基盤の確立を支援して荘園を賜わる。後に述べるように、駿河や遠江の荘園の多くが寄進されている。全国のあちこちの広大な面積の荘園が熊野三山領として施入された。
 上皇の熊野詣にともない貴族たちがこれに供奉した。一回の上皇の参詣に400人、500人という数の人々が狭い熊野街道を熊野三山に向かった。
 承久の乱により、朝廷や貴族の力が衰退すると、今度は武士や一般庶民に熊野詣の風潮が高まる。「蟻の熊野詣」という熊野参詣ブームが起こることになる。
 熊野三山はそれぞれ別個に運営されていたが、白河上皇が三井寺の僧の増誉を熊野三山検校に任命して以来、僧侶の手によって一元的に支配されるようになる。検校とは熊野三山の総取締りである。本宮、速玉、那智ともに、この検校の下に各種の役職が統治組織を形成する。
 しかし、検校は京都にあって熊野には常駐しない。代わって熊野三山にいて、これを実質的に支配したのが熊野別当である。
 別当は、熊野三山の宗務、荘園の管理、僧侶、山伏の支配などを行い軍事警察権も行使した。
 この別当のうち頭角を現したのが新宮の田辺別当家で、のちには熊野水軍を支配するまでの実力を保有するようになる。源義経の忠実な部下として有名な武蔵坊弁慶はこの新宮別当家に関わりのある人物である。
 新宮別当家は平安末期の源平騒乱に巻き込まれ、所有の荘園をめぐり内部対立を招くが、その荘園の中に早くも駿河国足洗荘の名が見える。
山伏の修行
 ところで、この熊野の支配組織の末端に属する者は、大衆、客僧と呼ばれるものであったが、彼らの多くが山伏であった。
 山伏は修験者ともいうが、修験とは山に入って山の霊気に触れ、山伏が崇拝する大日如来や不動明王、あるいは修験道開祖の役行者が感得したという金剛蔵王権現が自分の身に乗り移ったという自覚を得るまで修行することである。そして獲得した験力で予言をしたり、治病や安産の祈祷をする。験力とは今でいえば超能力である。
 修験とは「験力を修める」と書くが、それを聖不動経という経典では次のように説明している。「験力を完成しようと思ったら、山林の静かなところに居し、清浄の地を求めて道場を建設せよ。そこで護摩をせよ」。こうすれば、験力が得られるというのである。だから、山伏は深い山へ入って修行をする。
トソウ
 ひとくちに山伏の修行を山林抖擻というが、抖擻とは衣食住の執着を払いのけることである。だから服装もいたって簡素で、
柿衣
麻製で柿色に染めた鈴掛を着て、房のついた結袈裟、頭に兜巾である。手に杖を持ち、脚巾、わらじ履きである。首にはイラタカの実で作った数珠を掛ける。
 山伏は滝の水に打たれる滝行や、みずからの命を断つ捨身行をしたこともあった。滅罪のための捨身行である。たとえば、滝修行で轟々たる水音と肉体を突き刺す冷気に耐えていると、夢の世界を飛んでいるような感覚に陥るという。
 そして、やがて得も言われぬ幸福感に襲われる。一種の臨死体験である。
 もっとも5分が限度で、それ以上水に打たれていると、夢の世界どころか死の世界をさまようことになる。
 断崖絶壁から身を投じる。それが形式化したものが、崖から身を乗り出して行う覗きである。山伏は捨身によってすべての罪は消滅し、清浄な心身を得て、再生すると信じていた。
 命を捨てて死んでしまっては仕方がないから、捨身の代替として山伏は難行や苦行をするようになる。不眠、不臥や骨を刻
断食
む、肉をそぐなどという凄惨な行もあった。絶水や穀断も行の一つである。
 ふだんでも山伏の食事は質素である。山菜、木の実、木の芽を食べていた。ほかに松葉、松やに、笹や紅葉の葉まで食べたという。
 「天狗の麦飯」というものがある。木の葉やコケ類の堆積物に菌類が繁殖してできたものである。信濃の飯綱山ではこの天狗の麦飯を飢饉の時には付近の村民まで食べたという。
 飲料水は「かすみ」というものがあった。山頂の土を取り、清泉を加えて静置し、上層の3分の1は捨てて、少し濁った中層の3分の1を飲む。ミネラル・ウォーターである。
アカ
 修行はほかに、水に長時間浸かる水行をはじめ、山中で水を汲む閼伽行、護摩用の薪を拾う木行もある。閼伽行や木行などというと簡単そうに聞こえるが、足場の悪い急な山の斜面で重い水桶や薪の東を背負うのだから容易なことではない。役行者の像は従者として前鬼と後鬼を従えているが、行者が二匹の鬼に命じてこの行をさせると、鬼たちはあまりの辛さに涙を流したとさえいわれる。「鬼の目にも涙」である。
 修行中は常に仏菩薩を心に念じ、真言や経文を唱える。大日如来の「オンアビラウンケンソワカ」などがその代表例である。
 両手でいろいろな印相を作る。一方の手の人差し指を立てて、他方の手でこれを握るのは智拳印という。これを結ぶと、大日如来と一体になれるといわれている。忍者が姿を消すときなどに結んでいるのがこの印である。また、護身法明印という印を結ぶ。文字どおり危険な山中で身を守るためである。
 また、鋭い気合いで九字を切り、大金剛印や外獅子印などの九印を結ぶ。九字とは「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」である。
ホウボクシ
 道教の神仙の書「抱朴子」に記されていて、道士が山へ入るときの遁甲術、すなわち魔除けの呪文である。
 これが修験道に取り入れられた。煩悩魔障はじめ一切の禍を除く護身の呪術とされている。
 意味は「敵の刃物にひるまず戦う勇士たちが前列に陣取っている」。
 ほかに、般若心経を読んだりもする。
 新客(山伏になり立ての者)を南蛮いぶしといって唐辛子でいぶす。狭い部屋に入れられてすっばだかで唐辛子でいぶされれば、その苦しみはすざましいものがある。しかし、決して無意味な苦行ではない。唐辛子で身体をいぶすのは、皮膚を刺激しホルモンの分泌を活発にすることになるのだそうだ。
 石子詰というものがある。峯入りの途中、病にかかると仏罰を受けたと見なし、この法を行う。病人を谷に陥れ、上かち
リンチ
土砂を落とし生き埋めにするのである。のちに山伏仲間の私刑にも利用された。
トソウ
 修行の中途で何らかの理由で山林抖擻が不可能となった場合、死なねばならないという掟は今日でも生きている。比叡山の千日回峯行では、行者は身に短刀を帯びている。修行を断念せざるを得なくなったときには、この短刀で自らの命を断つのである。
 このように激しく肉体を消耗し、その上に食を減らし、さらには断食をするから、心身の生理機能は極端に低下する。肉体をさいなむから激痛をともなう。そして、感覚は逆に高揚する。幻想の中で黄金や七色の色彩で飾られた浄土や凄惨な地獄を見る。これも一種の臨死体験である。時に大日如来や不動明王などの姿を恍惚状態の中に見ることがある。
 こうして山伏たちは、自分たちが信仰する不動明王や大日如来と一体となり、その悟りの域に到達したと確信するようになる。即身成仏である。そしてその確信がみずからの験力につながる。
 熊野には早くから山中でこういった修行をする山伏たちが訪れており、すでに8世紀に僧侶の永興の名が現れている。彼は熊野で修行を続け、狐がついた人を祈祷によって治療した。また彼のもとにいた僧侶は熊野川に身を投じ、骸骨になっても法華経を唱えていたという話もある。
 熊野三山の一つ、速玉大社では近くの神倉山に山伏が集まって神倉修験を形成し、祈祷、相撲、護摩の修行を行い、さらに熊野から大峰山への山馳けを行っていた。彼らは神倉聖と呼ばれていた。中世にはここに天狗がいるという噂が立ち、麓の新宮の人々を恐れさせた。
 那智大社では、いうまでもなく滝籠もり修行を主とする。彼らが滝聖である。平安時代、花山天皇は退位後に那智に籠もって、滝修行をしたという伝承も残る。
礼殿
 また、本宮大社では本殿前の長床を本拠とする長床衆という山伏の集団があった。しかし、本宮には適当な行場がないために、早くから大峰山の峰入りを行っていたらしい。
神倉山の神座石
 ここで神倉修験の拠点となった神倉山の神座石について触れなければならない。
 新宮市の東、千穂ヶ峯(神倉山)の山裾の一角に赤茶色の巨大な岩がある。高さ10数b、幅もそのくらいはあろうか。ずんぐりとした巨岩である。この岩のことは早く日本書紀にも見え、神武天皇もここに詣でている。
 源頼朝寄進という538段の急な階段を登り神座石の真下に立つと、のしかかるような巨大な形に圧倒される。階段を上るのに土足が許されず、素足に草履を履き替えたのはそんなに古い話ではない。それほどこの岩は神聖視されていた。
 伝承では速玉の神はここから速玉大社に移った。神倉山の旧宮に対しての新宮である。結びの神もここから那智大社へ行った。
 神座石の前には小さな神倉神社があるが、この神社は神座石をご神体とする神社である。
 ところで神座石は「ゴトビキ岩」と呼ばれている。「ゴトビキ」とは聞き慣れない名だが、この地方の方言で「ヒキガエル」をいう。このゴトビキ岩こそが、神話の時代に神倉山のご神体としてあがめられ、海上からの格好の目印となり漁民や船乗りたちの信仰の対象となって、巨石信仰とあいまち速玉大社となったのである。
山伏の仕事
 話を山伏に戻す。
 山伏たちは熊野詣の人々を相手に熊野三山や途中の九十九王子の案内、経の供養、祓いやみそぎの手伝いなどをするようになる。そして、そのような人々に験競べ、相撲、延年の舞などを披露していた。とくに験競べは山に入って修行を終えた山伏が呪験の力を競うもので、その山伏の真価が問われる。
 また、山林に入って修行する人々には、同行して指導もする。この山伏を御師といった。御師は後世には壇那の宿泊の世話までする。熊野信仰を介して、御師と壇那の関係は営業と顧客との関係になる。
 このような形態がさらに発展すると山伏が全国各地に散り、熊野詣をする人々を勧誘して集団で熊野三山へ参詣させたり、どうしても参詣できない場合には代参までする。熊野の護符を配付したり祈祷をしたりして、熊野権現のありがたさを広く人々に説いて廻る。
 彼らの努力の積み重ねがあって、熊野三山信仰が全国に広まったといわれている。御師たちの熊野ブランド販売の成果である。現在、三千という熊野神社の名を冠した社が全国に散在するのも、熊野の山伏たちが熊野三山を地方の人々に知らしめるために勧請したものだ。
 そして、鎌倉時代以降、荘園を武士に蚕食されて熊野三山が衰退してくると、山伏たちの中にはその宗教活動を独自に続ける者が現れて来る。そして山から山へ遊行するようになる。地方の寺社に客僧として住み着き、行く先々で同じ系統の山伏たちと語らって修行するかたわら、生活の資は右に述べたように地方の豪族や里人への祈祷はじめ護符の配付などによって得た。時には壇那を伴って熊野に参ったこともあった。
 権兵衛の祖先たちはこのような山伏だったらしい。定着型の山伏に対する遊行型の山伏である。