第2節 系図の人名が語ることは
疑問が多い系図の人名
 地名に引き続き、樽系図に現れた人名について検討することにしよう。
 地名と同じように注書きに登場する人名を一覧にし、あわせてそこに記された行動をまとめてみる。
飛騨太夫義光
竹千代
新田義貞
武田信虎
三条転法輪
   藤大納言
児島弥太郎
竹千代を婿にする
越前で自害(飛騨守義胤が義貞に殉死)
権之頭義友を召し抱える
勅使として下向
海野で豊後守義隆に打ち取られる

 これらの人名をどう考えたらいいのだろう。
 一見すると十人十色、なんら脈絡がなさそうである。しかし、系図の作者が意味のない人名を系図に記載するはずはない。地名と同じように望月、滝両氏と密接に関係する人名として、一定の意図をもって取り上げたのに違いない。
 それにしても妙なことに気付く。なぜ、右馬頭太夫義旭改め竹千代の名だけが系図に出てくるのか。望月氏のなかにも、名を変えた人が歴代には大勢あったはずだ。それなのに、なぜことさらに竹千代だけを取り上げたのだろう。
 次に新田義貞である。義貞が越前で戦死したことは史書にもあり事実である。それでは、なぜ新田義貞を記したのだろう。
 時代は南北朝時代である。新田義貞以外にも後醍醐天皇に忠節を尽した忠臣は多かった。天皇の皇子の大塔宮もいるし、湊川で散った楠木正成もいる。義貞よりも歴史上の知名度では大塔宮や楠木正成のほうがはるかに高いはずだ。それがなぜ新田義貞なのだろう。
 しかも注書きの前後の関係を無視して、突然のように義貞の記事がある。それも左近丞政治にあらかじめ家を継がせてさえいる。系図の作者は、いつでも飛騨守義胤が新田義貞とともに死出の旅路に赴けるように周到な準備をしているのである。
 これほどまでに望月氏が、新田義貞に忠義を尽くさねばならない理由があるのだろうか。
 望月氏は武田に恩顧のある武将である。だから、系図にあるように落人になってしまった。武田の旧家臣の多くが徳川家康に忠誠を誓ったのに、望月氏は家康へ服属もせずに、織田氏の厳しい追求を逃れて駿河まで落ち延びて来て竜爪山に隠れたのである。
 先祖の一人が新田義貞に殉死をしたのだから、子孫たちも逃げ隠れせず、武田勝頼の切腹に従い、潔く死を選ぶことこそ武門の誇りというものではないのか。あるいは、信玄が病死したとき、なぜ三途の川の供をしなかったのか。それを竜爪山に隠わ住むとは先祖の名に恥じるではないか。
 妙なことはまだある。児島弥太郎である。前に述べたように、児島弥太郎は鬼児島と異名された上杉謙信軍屈指の豪の者である。たしかに、彼を討ち取ったことは望月氏の名を高からしめたろう。だが、なぜ児島弥太郎なのか。ほかにも越後勢のなかには、甘糟備後守、色部修理、宇佐美駿河守など豪傑がいたのである。それなのに並みいる豪傑の中からあえて児島弥太郎を取り上げたのは、作為あってのことではなかろうか。
人名は徳川家康と関連があった
 ◆ 竹干代・新田義貞・飛騨太夫義光
 それでは竹千代から始めよう。「竹千代」という名を持っていた武将の名をどこかで聞いたことはないだろうか。
 いうまでもなく徳川家康の幼名なのである。このことに気付きさえすれば、問題の解決は容易である。系図の作者は、この義旭から義胤までについて、徳川家康と似た歴史を系図に記し、望月氏が先祖代々、徳川家康と類似の家系であり、その家康に代々、忠義一途であったことを読者に強調し印象づけたかったのである。
 新田義貞に従って死を選んだのも、徳川家が新田義貞の子孫だという伝承があるからだ。
 家康の祖先は、清和源氏の新田氏の支族得川氏で、有親と親氏という父子が故郷の上野国(新田義貞も上野国の住人である)を離れて流浪し、三河にたどり着いたという。親氏はその後、三河の加茂郡松平郷の豪族松平太郎左衛門信重の養子となった。それから、有親・親氏・泰親・信光・親忠・長親・信忠・清康・広忠を経て家康に至るといわれている。
 しかし、はじめの二代の有親と親氏、さらに泰親についてもはっきりしたことがわからず、そのあとの信光からようやく史料に名が現れてくる。だから、信光・親忠・長親・信忠・清康・広忠がちょうど家康の前で六代になっている。このことを系図は「これまで六代のうち」と表現しているのである。また、義胤の代で望月と姓を改めたというのは、後に家康が松平から徳川に改めたのにならったのである。
 そして、義胤が新田義貞とともに戦死したことは、望月氏が徳川家の祖先に命を捨ててまで奉仕したことを系図を読む人々に理解させるために書かれたものなのである。しかも、家名断絶のおそれのないように後継者まで選んだ上で。
 このように考えると、義旭を取り立てて婿にまでしてくれた飛騨太夫義光が誰であるかはおおよその察しがつく。
 今川義元なのである。義元の官職名は治部大輔である。「飛騨太夫義光」がどことなく、「治部大輔義元」に似ているのがわかる。だから義光が「自分の婿とした」というのは、義元が家康を人質に取ったことを指しているのだ。
 以上のことが理解できると、先ほどの地名のところで説明を省略していた甲斐竜王に望月氏が住んだ理由も納得できる。
 甲斐竜王には熊野修験と関係するものはほとんどない。この地は甲府盆地の中にあって、釜無川に沿うから、とくにこれという山もない。山岳宗教の修験道と結びつくものもない。そのかわり、ここには江戸時代に東照宮があったのである。
 武田信玄の残した信玄堤を、武田氏滅亡後も維持させるため、家康が慶長10年(1605)、竜王村の新宿46戸を取り立てて竜王新田を作らせた。そのさい彼らの年貢を免除して、信玄堤の維持費に充てさせたという。
 村人は立村時の家康のはからいを徳とし、その恩に報いるためにのちに東照宮を勧請したというのである。
 先ほど説明を省略したが、右の甲斐竜王のように東照宮に縁のある地としては三河鳳来も同じである。
 家康の父・広忠は妻の於大の方とともに鳳来寺峯薬師に祈願して儲けた子が家康だという。このことから家康の薬師如来申し子説が生まれる。
 この地の東照宮は、祖父の家康が薬師如来の申し子であることを知った徳川家光の命で慶安4年に竣工し、その後、当地内に約四百六十石の東照宮領が設置された。歴代将軍の尊崇を集めていたという。
 系図が長篠の地を取り上げたのは、至近距離の鳳来寺山が山岳修験の地であったがゆえばかりでなく、ここに東照宮があったことと無関係ではあるまいと思う。
 これでわかるように、系図の前半は、人名についていえば、徳川家康と望月氏との関係がいかに密接であるかを、徹底して説明するのが目的だった。
 では、後半の部分はどうだろう。
人名は武田氏とも関連があった
 ◆ 武田信虎・三条転法輪藤大納言
 系図の後半は武田信玄にとどまらず、武田氏との関係を強調している。
 武田信虎はいうまでもなく信玄の父である。次の三条転法輸藤大納言は信玄の夫人の実家である。だから、系図の作者は、信濃守義直に藤大納言が京都から下向したさいには長田まで出迎えさせ、信玄のみならずその夫人の実家とも親密であることを説明しようとしているのだ。もちろん、このような高位の公家と交際ができるほど、彼が文の道にも優れていたことをいいたかったのだろう。
海水を樽に詰めて運んだから「樽」峠か
 それではここで、地名の項で残しておいた中河内樽について説明しよう。系図がこだわるように、樽も武田氏と密接な関係にあるからである。
 中河内樽は駿河だが、ここを甲斐国に向かって登ると樽峠がある。この峠がなぜ「樽峠」と命名されたのか、地名辞典を見ても武田信玄が駿河を侵攻するさいにここを通ったこと以外は、その由来らしいものは何も記していない。
 これまでの竜爪権現の論文のなかには、樽峠は武田信玄が駿河を侵攻するさいに利用した峠であり、「樽」の名の由来も馬の背に海水を詰めた樽を乗せて、ここを通ったからだと書いているものがある。山国の甲斐国に塩がないことからの発想だろうが、海水を飲むわけでもあるまい。樽で海水を運んだにしても、なにほどの塩がその海水から取れるというのだろう。
 また、一説にはこの付近には滝が多いので、滝は水が「垂る」だから「樽」となったという。滝の語源は「垂る」だから、「垂る」が「樽」となったとする説もうなずけないことではない。
 しかし、中河内樽は現在の清水市中河内だが、ここにそれほど大きい滝があるとも聞かないし、滝の数が取り立てて多いとも思えない。どうも「樽」の地名の由来はほかに求めなければならないようである。
樽峠は樽八兵衛の名から付けられた
 ある日、甲州の歴史を記した甲斐国志を見ていたところ、「八代郡東高橋(現在の山梨県石和町)に樽八兵衛という人物があった」という記事がふと目に入った。同様の記事は姓氏家系辞典にもあった。しかも、そこでは樽氏を名族としている。また、もう少し調べてみると、山梨県石和町には樽屋敷という地名もあったという。樽八兵衛が住んだ地だそうである。
 そしてさらに甲斐国志は樽八兵衛について、次のような奇妙な話を二つ記している。
 1つは八兵衛が馬の毛を染めることが巧みで、白馬を赤くし、赤い馬の毛を黒くすることが得意であったというものである。
カッパ
 2つめは河童の話である。
 河童が笛吹川のほとりで水を飲んでいた馬の尻尾を掴み、水の中に引き込もうとした。それを見た八兵衛は「エイヤッ」とばかりにその片手を切り落とした。ところが、その河童が夜中に八兵衛を訪ねて来て、切り落とされた手を返してくれと涙ながらに懇願した。八兵衛は河童に同情してその手を返してやった。
 すると、喜んだ河童はお礼として、この村には今後決して水害を起こさせないと約束したという話である。
 実はこの河童伝説はこの笛吹川の樽八兵衛の話以外にも、釜無川に沿う同じ山梨県の韮崎市藤井にも伝わり、こちらでは馬にいたずらしようとして手を切り落とされた河童が(ただし、手を切った人物が誰かは記されていない)、手を返してもらった謝礼に、義理固くも切傷の妙薬を作る秘法を伝授して帰ったという話になっている。
 山梨県の甲府盆地を東北から西南に流れる笛吹川と北からほぼ南流する釜無川とは、鰍沢町あたりで合流して富士川となる。このように富士川の上流の両河川に河童伝説が残っているのである。
 ところで、馬と河童が登場すれば、だれでも思い出すのは民俗学の泰斗・柳田國男の「河童駒引考」であろう。河童が馬を水中に引き込む話である。そのとおり、樽八兵衛の話は全国的な河童駒引の話の一つなのである。
 しかし、河童駒引にはほかに猿が登場する。その猿は馬を守護する動物とされている。
 なぜ、猿が馬を守る動物として古くから信じられていたのか理由ははっきりしない。江戸時代の大名家では、正月には猿回しを屋敷に入れ、厩の前で猿に芸をさせ、馬の無事を祈らせたという。日光東照宮には神馬を入れておく神厩舎がある。この建物の長押には八態の猿の彫刻があり、有名な「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿はその一部だが、これも猿が馬を守護するといういい伝えによる。
 だが樽八兵衛の話には猿の名はどこにも登場していない。しかしいるのである。それが「樽」なのだ。「サ」が「タル」に変わったのである。
 そんなことは単なる語呂合わせだと非難されるかも知れないが、決してそうではない。人名として「猿」ではあんまりだと
サル
タル
いう配慮が人々に働き、「猿」を「樽」に変えたのだ。
サル
 このような例はほかにもある。万葉歌人の第一人者で歌聖と仰がれた柿本人麿は、罪を得て「柿本猨」と名を改めさせられたという学者もいるのである。
 豊臣秀吉は猿に似た自分の顔にコンプレックスを持っていたのは周知の事実である。昔から「猿」の文字は、人に付すべきものではなかったのである。
 馬、河童、猿と三種の動物が出揃った。これで樽八兵衛の物語は、甲斐国の河童駒引伝説であることがわかった。
 それでは馬の毛を白から赤に変えたり、赤から黒に変えたりするとはどのような意味なのだろう。
 これは雨が降ることを祈る祈雨と晴れることを祈る止雨に関係がある。
 雨乞や日乞のさいに献馬をする風は、記録ではすでに平安時代以前の宝亀元年(770)に見え、降雨祈願には黒毛の馬を、止雨祈願には白毛の馬を神社に奉納したとある。
 江戸中期の武家故実の大家・伊勢貞丈は黒馬の黒は陰の色、すなわち水の色であり、白馬については「至って白きものは薄青」といい、青は晴天に象る、それゆえ晴を祈って白馬を献上したのであろうと推測する。
 ところが平安時代中ごろから、白馬に代えて赤馬を献上するようになったと、平安時代の有職故実書である西宮記には書かれている。赤が太陽を連想させることかららしい。
 こうして、祈雨には黒毛の馬が、止雨には赤毛の馬が献上されるようになったのである。
 樽八兵衛は河童駒引の民話の擬人化であろう。馬の毛を染め分けるような特技、すなわち晴雨を自在に操る力などは、もともとの樽八兵衛にはなかった。ただ、河童に片手を返してやり、そのお礼にここに洪水を起こさせないと河童に約束させただけのことだった。
 それをあえて八兵衛に馬の毛染め分けの特技を付与したのは、笛吹川沿岸に住む人々の、降雨がもたらす洪水の恐怖と川の穏やかなることへの切なる願いであろう。
 石和町東高橋は、江戸時代は高橋村を称していたが、旧笛吹川(現在の平等川)の激流により甲府市側の西高橋とに分断されて、今日に至ったと考えられている。この住民たちの強い洪水防止の願望が、一河童だけの約束では心許なく、満足できなかったために、順時に雨をもたらし、晴天を与える力を樽八兵衛という河童退治の英雄に追加したのであろう。
 もう一つ、樽八兵衛が馬に関係した名であることは、その名「八兵衛」にも現れている。「8」は8月1日、すなわち八朔の「8」なのである。
ウマシロ
 室町時代から江戸時代にかけて、武家社会では八朔の日に太刀と馬を引出物として贈る風習があった。馬はのちに馬 代に変わるが、はじめは本物の馬を贈呈しあった。だから八朔を馬節句ともいった。
 これが農民にも波及し、実際に馬を贈りあっていたという。しかし、農民にとり、馬では負担が大き過ぎるため、早稲の米で作ったしんこ細工の馬を贈るように改められた。
 ところで、騎馬軍団として鳴らし、馬を貴重な戦力とした武田軍は、樽八兵衛の能力のうちで、馬の毛の染め分けの特技を、天喉を左右する能力から、馬を自由自在に操ることができる能力へと拡張解釈した。そればかりでなく、八兵衛が河童を退治して馬を守ったことから、彼を災害や怪我から馬を防いでくれる守護神に仕立てたのである。
 樽峠から中河内川に沿って駿河国に入るルートと現在の国道52号線との間に、旧身延道がある。駿河国と甲斐国との境界に近いその一部が、「長峰三里」という尾根伝いの道である。この道も武田軍が駿河侵攻に通った道だった。
 ここに「鞍打場」と称されて、山中では比較的平坦で広い場所がある。足場の悪い山道を踏みしめ、やっとここに着いたとき、武田軍の兵士たち全員は安堵したに違いない。まして人間よりはるかに大きな体のうえ、兵糧や武器を背に乗せた馬を伴っている。1歩間違えば谷に転落する危険のなか、安全に馬をここまで連れて来られれば、作戦は半ば成功であろう。
 鞍打場は武田軍が一息入れて馬を休ませ、水や飼葉を与え、また疲れた馬から予備の馬に乗り換える場所だった。そして、改めて隊伍を整え、駿河に入ったことだろう。
 私は樽峠がこの鞍打場と同じように馬の乗継地の役割を果たした場所であり、それだからこそ、ここに馬の守護神・樽八兵衛の名にちなんだ樽峠の名称が与えられたのだろうと思う。
 その樽八兵衛は騎馬の戦いに強い精悍な武田三十騎の1人だったという。武田氏にこのような名称の軍団はもちろんない。系図が権兵衛一家の竜爪山に落ち着く以前の居住地として、中河内とせず樽と表記したのは、樽ではなく樽峠を強調したかったからだろう。
 もちろん、系図の作者は柳田國男の名も河童駒引説話も知ろうはずがない。樽八兵衛が武田三十騎に属していたことから、望月氏も樽八兵衛に勝るとも劣らぬ勇猛な武田氏の武将であることをいいたかったのだと、私は考える。
なぜ児島弥太郎を討ち取ったか
 ◆ 児島弥太郎
 最後に残ったのは児島弥太郎である。彼は児島弥太郎一忠といった。そして越後の上杉軍の中でも、鬼児島の異名を持つ豪傑であった。一忠の名のとおり、上杉謙信に忠義一徹の武士だった。
 系図が取り上げた川中島の合戦で、鬼児島は「三国一」と大書した旗指物をひるがえして信玄の重臣飯富三郎兵衛の軍に突入し、飯富と一騎討ちの戦いをするのである。ところが、飯富は信玄の息子の義信が越後勢に包囲されて苦戦していることを知ると、義信の救援に馳せ参じなければならず、鬼児島の武士の情にすがり勝負の延期を請う。鬼児島は山県の忠節に免じて、快く後日の勝負とすることを承諾する。
 このように花も実もある豪傑の鬼児島なのである。なぜ望月氏が手柄を立てるためとはいえ、彼を討ち取る必要があるのか。見逃してこそ強く優しい武士、あっぱれ名将と称えられるのではなかろうか。
 それに、鬼児島は長野県飯山市小佐原で戦死し、この地に埋葬されたと伝えられているのだ。系図にいうような海野とは違う。そのうえ、鬼児島が伝説的な人物であることは前にも書いたが、それというのも彼の名が上杉軍団のなかに見当たらないからなのである。
 ところが鬼児島の伝説は新潟県内のあちこちにある。妙高高原村蔵々には小島姓(児島ばかりでなく小島とも書いたらしい)があり、鬼児島の子孫を称する家が多い。また、上越市から15キロbほど南の新井市高柳には鬼児島の館跡という戦国期の館跡が残る。
 長岡市乙吉町には曹洞宗の竜穏院という寺院があり、児島弥太郎が中興開基と伝えられているが、ここには彼の守り本尊だったという馬頭観音像や鐙、長刀などの武具が残されている。寺の墓地には彼の墓もある。
 ではなぜ望月氏は鬼児島を討ち取ったのだろう。
 それは長岡市乙吉町には次のような伝説があり、私はこれと関連があると考える。
 八幡太郎義家が奥羽遠征の帰途にこの地に立ち寄ったが、川が氾濫して進むことができなくなった。里人がこれを見て、山中から松を伐り出し、川に橋をかけてくれたので、義家は無事に京都への凱旋を果たしたというものである。
 里人の好意に感激した義家は次のような歌を詠んだ。

「越路とは鬼住む里と思いしに
都に近き人心かな」

 のちにこの歌が刻まれた歌碑が建てられたと伝えられている。
 八幡太郎義家といえば、樽系図にもあるように望月氏の祖先の1人である。義家は村人たちの親切を見て、彼らの心が都人のように優しく、ここに鬼がいると思っていたのは自分の誤解だったと気づいた。そのことを歌に詠んだ。そして安心してこの世を去った。
 ところが、鬼の異名を持つ児島弥太郎が乙吉に生きていたのでは、本当に鬼がいたことになり、義家の誤解が誤解でなくなってしまう。このことで泉下の義家が心を悩まし続けて、成仏の障りになったとしたら、子孫としてご先祖様の義家に申し訳が立たない。
 こう考えて、義家の後生安楽のために、乙吉出身の児島弥太郎を討ち取るような注書きが作られたのだろう。
 さて、それでは系図はなぜ前半に徳川家康との関係を、そして後半には信玄のみならず武田氏との間がきわめて近いことを記すのだろう。
 それは望月氏と滝氏の両氏を考慮に入れた結果に外ならない。
 望月氏は権兵衛の父方の系譜だから、徳川家康との近しい関係を強調することはわかる。では、なぜ武田氏と滝氏との間も、家康と同じように取り扱わねばならないのかということになる。
 そろそろ望月氏と滝氏の出自について、説明しなければならない時が来たようである。