3 望月氏と瀧氏はどこから来たのか
 第三の謎は望月氏と瀧氏の出自である。
望月氏・瀧氏と龍爪山の位置
 権兵衛は寛文縁起の冒頭では武田権兵衛である(樽の上村の武田甚右衛門の子であるから、当然そういうことになる)。
 また、寛文縁起では瀧権兵衛の名で署名している。この場合の権兵衛は「瀧」氏である。ところが、後に記すように権兵衛は望月権兵衛と名乗る場合もあり、この場合の彼の姓は「武田」氏でも「瀧」氏でもなく、「望月」氏なのである。
 なぜ、権兵衛には3つも姓があるのだろう。
 これはどうも権兵衛の祖先の出自に関係があるらしい。
 また、瀧長門正の古今萬記録によると、権兵衛には2人の娘と4人の息子があり、権兵衛の死後間もなく息子たちは4氏に分かれ、それぞれ望月氏と瀧氏の2氏ずつとなり、望月氏が樽(清水市)と清地(清水市)に、瀧氏が平山(静岡市)と吉原(清水市)に住んだという。また、この4氏はのちに6氏に分かれたことが、古今萬記録には記されている。
 わかりやすく示すと次のようになる。
 望月氏……樽望月氏(清水市)…これからもう一氏(布沢望月氏)がわかれた。
      清地望月氏(清水市)
 瀧 氏……吉原瀧氏(清水市)…これからもう一氏(布沢瀧氏)がわかれた。
      平山瀧氏(静岡市)
 ここでは、もう武田の姓は現れず、望月氏と瀧氏の両氏になっている。
 これら6氏がわかれて住んだ場所と龍爪山の位置を示したのが図である、
 では望月、瀧両氏はどこの出自であり、どのような家柄、職業なのだろうか。これは権兵衛が名乗っている3つの姓(武田、望月そして瀧)にも関係してくる。
 寛文縁起で権兵衛の父親の名が武田甚右衛門というから、甲斐武田氏の残党であるらしいと読み取ることはできる。また、望月氏の系図でも、権兵衛以前に多くの武将の名が並び、彼らがある時期から武田氏の家臣だったと記されている。
 さらに、その系図では望月氏は飛騨、信濃から甲斐を経て駿河に来たとある。
 このようなことから、武将の望月氏が武田氏の滅亡した天正年間に甲斐を捨て、甲斐と駿河の国境の樽峠を越えて駿河に入り、龍爪山中に隠れたのではないか、というのがこれまでの研究者の一般的な見解である。
 そして権兵衛の代に至り寛文縁起に記されているように、彼が慶長年間、龍爪権現の使いの白鹿を撃って神がかりした後、龍爪権現の命でその社人になったというのである。
望月氏は武将だったのか
 しかし、本当に権兵衛の祖先たちは、武田氏の武将だったのだろうか。私はこれに大きな疑問を呈したいのである。それには2つの理由がある。
 一つは徳川家康が取った武田の遺臣の処遇策である。武田氏の後に甲斐に入った家康は彼らを処刑したりせずに多くを登用した。甲斐で家康が北条氏直を破った直後には、八百余人に及ぶ遺臣たちが、代表者を定めて家康に忠誠を誓い誓約書を提出している。家康も彼らを許し、旗本や御家人にその多くを取り立てた。なかには子孫が大名にまで出世した例もある。そればかりか、水戸藩はじめ尾張藩や彦根藩などの親藩や譜代の大名家に採用された遺臣もいる。
 信玄の直属家臣団で甲州九口道筋奉行を勤めていた小十人頭さえ、徳川氏以後も境目の警固を任され、これが後に八王子千人同心隊の中核になったという。
 このように家康は武田の遺臣たちを決して処罰しなかったのである。それどころか積極的に彼らを用いた。それなのになぜ権兵衛一族のみが転々と居所を変えて、家康の追求を逃れようとしたのだろう。
 系図には、家康ではなく織田信長の誅するところが厳しいために龍爪山に隠れたとある。たしかに信長の軍勢は甲斐国で暴虐の限りを尽くしたらしい。武田の遺臣を捜し出しては殺し、武田氏が崇敬した神社を破却したりもした。名刹の恵林寺も焼き払った。住職の快川紹喜を山門の上に追い詰めて焼き殺した。「心頭滅却すれば火もおのずから涼し」はこのときの紹喜の偈であることはよく知られている。
 しかし、信長の兵が甲斐国に入ったのは天正10年(1582)3月である。ところが、そのわずか3月後の同年6月には本能寺の変で信長は不慮の死を遂げている。
 だから、織田氏の追求が厳しかったといっても、三ヵ月という短い間でしかない。少なくともこの三ヵ月、あらゆる辛苦に耐え潜伏してさえいたら、甲斐を去ることはなかったのである。そうすれば、駿河にまで落ち延びる必要もなかったし、一生を龍爪山に籠もって隠れ住むこともなかったのだ。
 また、龍爪山に潜んでいても、信長の死は当然、人々の噂などで耳に入って来ただろうから、また甲斐へ帰還してもよかったはずである。なぜ、そうしなかったのだろう。甲斐に戻らずに龍爪山に隠れていなければならないよほどの事情でもあったのだろうか。
 それでいながら、寛文縁起の中で権兵衛の父は、武田甚右衛門と堂々と武田姓を名乗っている。これではまるで武田の一族であることを天下に喧伝しているようなものである。
 ふつう追われる身となれば、氏名はもちろんのこと、姿も変えてひっそりと人の目に触れないように日を送るものだろう。にもかかわらず、そのまま武田姓を使用している。これでは武将にあるまじき油断だといわれても仕方があるまい。
 次に、権兵衛が武将の子から社人になったという事実である。
 昨日まで武将であった者が、突然に社人に変身することなどはありうることなのだろうか。
ノリト
 社人になるには、祝詞も読めなければならない。その祝詞も祈年祭をはじめ豊作を祈るものや六月祓の祝詞もあり、一つでは済まされない。祓いにしても中臣祓や六根清浄祓などいろいろある。それに季節に応じたさまざまな祭の作法も知らねばなるまい。延喜式や日本書紀など古典の知識も必要だったろう。
 人々の要求に応じて、神に祈祷もしなければなるまい。さまざまな病気や怪我を治療するためには、それに対応する祈祷も数多く必要だったろう。
 また、社人となれば当時の知識人である。龍爪権現の信者や参詣者の悩みを聞き、適切な指針を与えたり、家相や墓相を見てやったりする機会もあったはずである。
 問題の解決のためには、易を立てて占ったりもしなければならない。当時の人々の生業は農業や漁業、狩猟だったから、暦の知識も不可欠だろう。
 これらの知識をいつ獲得したのだろう。
 私はこのようなことを想像で書いているのではない。お話をうかがいに訪問した清水市布沢の望月さんのお宅には、社人をな
カジ
さっていた曾祖父や祖父の方々が勉強のためにしたためた易学のノートが残っている。細い毛筆で克明に記入された易の卦辞や
コウジ
爻辞(いずれも易の判断の言葉)、そしてその解説などを見ると、その勉強ぶりには頭が下がる思いがする。
 祝詞集も残っていて、その一行一行に朱字で細かい注が施されている。
 また、長門正の古今萬記録には自家の過去の記録や龍爪権現の周辺に起こった事件ばかりでなく、日本の歴史や年号、さらには弓術や和歌、囲碁の用語などに至るまで細かに記されている。嘉永6年のペリー来航時の日本の混乱ぶりなども記録していて、社人が幅広い知識を持ち、社会に起こるいろいろな事象に関心を抱き続けていたことがよくわかる。
 戦いに明け暮れた戦国時代の武将に、このように多様な知識を吸収する余裕などあろうはずもない。武将が当意即妙な歌でも詠めば、公卿が珍らしがって日記に書き残すような時代なのである。だから、神道の素養もない武士が、社人になることがそれほどたやすいことだとは考えられないのである。
 この疑問は延享縁起の権兵衛にもいえる。まして延享の権兵衛は樵夫である。社人になることなどますますむずかしいと思うのだが。
瀧氏はどのような出自か
 疑問はまだある。権兵衛の家は彼の死後、望月氏と瀧氏の2氏ずつに分かれたことは前に記した。
 しかし延享縁起では権兵衛は社人となり「瀧紀伊」を名乗っている。ここでは、望月氏の姓はまったく出てこない。なぜ「望月紀伊」ではなかったのか。
 それに、なぜ名前が「紀伊」なのか。駿河国にいるのだから「瀧駿河」でもよいはずである。それをなぜ現在の和歌山県の古称である紀伊を名乗ったのだろうか。「紀伊」とした理由がわからないのだ。
 一方、望月氏の系図によると、瀧氏は権兵衛の父・望月甚右衛門の妻の父として、「瀧重太夫」の名で突如として出現する。瀧重太夫は権兵衛からみれば祖父にあたる。そして、権兵衛は望月氏の男(甚右衛門)を父とし、瀧氏の女を母として生まれたことになる。
 また、権兵衛の妻も「瀧氏の女」であると望月氏の系図に記されている。
 私はこの重太夫と重太夫以前の瀧氏について、望月氏や瀧氏の子孫の方々にいろいろと訊ねてみた。また、古本さんはじめ龍爪権現にくわしい方たちにも質問した。しかし、誰一人としてご存知ないのである。瀧氏は忽然と姿を現したとしかいいようがないのである。
 この瀧氏の出自も数ある龍爪権現の謎の中の大きな謎なのである。