第1章 数多い謎
1 寛文縁起と延享縁起
 まず、「龍爪山開白ゑんぎ」の内容を見ることにする。なお、この開白ゑんぎは龍爪権現の独白の形式を取っている。
龍爪山開白ゑんぎの一部
龍爪山開白ゑんぎの一部

 「龍爪権現は言う。駿河国庵原郡樽の上村の武田甚右衛門の子、権兵衛が辛未の年の正月17日に龍爪山に狩に行き、16頭の鹿のうち額が白く背筋も白房のように白い鹿を撃ち殺した。これらの鹿は我が眷族であった。ために権兵衛は3年の間、我に乗り移られて神がかりとなった。
 悲しんだ権兵衛の親たちは、一日に百度千度も垢離を取りあらゆる神仏にその平癒を祈った。不憫に思った我、龍爪権現は我に仕える者として権兵衛を選び、彼にさまざまな知恵を授けた。村の人々は権兵衛の深い知恵に驚くようになった。そして、我は権兵衛の住むところに我が社を立てさせ、祭らせた。
 龍爪権現はさらに言う。だが、そこはむさ苦しかった。そこで天下の守護神である我は、織田信長に乗り移って信長を守護し、また秀吉が天下を取ると、我も大阪城の天守閣に住んだ。
 そのうちに豊臣秀頼と徳川家康との間で戦いが始まり、天下が麻のごとく乱れると、我は天下を取るべく生まれた家康に味方することにした。
 家来三万六千人を擁した我は、家康軍の兵の旗の上に彼らを乗り移らせ、大阪夏の陣を家康の勝利に導いた。兵糧として米を一日に三千石湧き出させたのも我が手柄だった。
 大阪城が落ちてから後、家康の住む駿河に飛んで来た我、龍爪権現は駿府城の天守閣に住んだ。しかし、天守閣が火災に遭ったので、権兵衛に命じて龍爪山に社を建てさせ、権兵衛にも我に仕えるために龍爪山に住むように託宣をした。そして、1年に3回、すなわち正月17日、3月17日、9月17日に祭を行わせるようにした。
 最後に龍爪権現は念を押すように言う、我はすぐれた神通力の持主なるが故に、我が教えを信じれば、現世では子々孫々に至るまで火難や病難などあらゆ災難を逃れることができ、また来世では安楽に暮らすことができる。我を深く信心せよ、我を深く信心せよ、と」。
 開白ゑんぎの本文、すなわち龍爪権現みずからの独白はここで終わる。そして、そのあとに、次のように日付と関係者の署名がある。
日付 寛文元年正月吉日
署名人
中河内
布沢村
黒川村
平山村
樽の上村社人親
庄屋
同子
庄屋
組頭
庄屋
同子
同子
同子
同子
次左衛門
太郎左衛門
新左衛門
片平五郎左衛門
片平権七郎
甚左衛門
六郎太夫
瀧 権兵衛
六之丞
権左衛門
権十郎
三次郎

以上がこ縁起の内容である(これからはこの縁起が記された年の年号に従い、「寛文縁起」と呼ぶことにする)。もっとも独白は少々長過ぎるので、龍爪権現にはまことにおそれ多いことだが、一部を省略してある。
縁起がもう一つある
 ところが問題なのは龍爪権現の縁起はこの寛文縁起だけではないのである。
 寛文縁起は江戸時代初期の慶長10年代(1605年頃)に起きた権兵衛神がかりの事件と徳川家康に味方する龍爪権現の大阪夏の陣の活躍を主に記すのだが、実はもう一つの縁起があって、そこでは慶長からほぼ130年を経た江戸時代の中期、延享ごろ(1740年代)の話として権兵衛の神がかりが語られているのである。
 これは江戸時代後期の文化文政時代、さらに降って文久年間に書かれた駿河に関するいくつかの地誌、たとえば駿河記、駿国雑誌、駿河国新風土記などに記載のあるもので、駿河記を例に取ると次のような内容である。
 「延享の頃、小川の奥樽村に住む権兵衛という樵夫が、もの狂いのように口走り、自分は龍爪権現である。願いがあれば我に告げよといい、毎日、浜に出て髪を洗って身を清めた。
 病人が路頭に権兵衛を待ち、彼に祈ると病に大いに効果があった。これからますます権兵衛を祈り、それを通じて治癒する病人が増え、そのため権兵衛は多くの財産を得て、龍爪山に社を遷し建てた。
 そして権兵衛自身も吉田家の裁許状を得て神職となり、瀧紀伊と称するようになった。これが龍爪神職の初めである」(この縁起も延享の年号を取って、これからは「延享縁起」と呼ぶことにする)。
 一読すればわかるように、延享縁起には寛文縁起と違い、権兵衛が鉄砲で鹿を撃つこともなければ、大阪夏の陣もない。まして、龍爪権現が徳川家康のために働いたことを強調した部分は完全に脱落している。
 要するに神がかりした権兵衛が神通力を得て、祈祷により病人を治癒させた、そして瀧紀伊という名の神職になった、というだけの単純な話に変化している。
 寛文縁起には物語性があるが、延享縁起は無味乾燥である。ただ、事実を事実として述べているに過ぎない、という印象を与える。
権兵衛が2人いる
 その上、主人公の権兵衛も名は同じ権兵衛であっても、神がかりの原因が延享縁起にはなにも記されていないし、その生まれ
も寛文縁起では武田甚右衛門という武将らしい者の子のようだが(たしかに後に述べるように望月氏の系図でも武将の子となっ
きこり
ている)、延享縁起では樵夫である。
 権兵衛が2人いるような錯覚さえ生じる。だから、寛文の権兵衛と延享の権兵衛は別人であると考える研究者もいる。
 静岡県史は2つの縁起を紹介しているのみで、両縁起の関連には何も触れていない。
 このような権兵衛2人説が生じるのにはもう一つの理由がある。それは鉄砲で白鹿を撃ち神がかりした権兵衛は、正保元年9月16日に死亡したと、これも望月氏の系図や古今萬記録にはっきりと書かれているのである。しかし、一方の延享縁起の権兵衛は、その生年も没年もわからない。
寛文縁起と延享縁起の権兵衛
事件の年事 件 の 内 容
慶長10年代
(1605ごろ)
権兵衛が白鹿を撃ち殺し、神がかり(寛文縁起)

正保元年
(1644)
━━
━━━━━━権兵衛が死亡

寛文元年
(1644)

寛文縁起に滝権兵衛が署名している

享延頃の
(1740年代)

権兵衛が神がかり
(延享縁起)
 慶長10年代(1605年頃)に神がかりした権兵衛が正保元年(1644)に死亡したのはわかる。しかし、死亡してからほぼ百年を経て、延享の初め(1740年代)に権兵衛が再び不死鳥のように生き返り、またも神がかりしたということになる。
 そればかりではない。前に書いたように寛文元年(1661)に作られた寛文縁起では、死んだはずの権兵衛の名が瀧権兵衛としてその子供たちの名とともに記されている。面妖な話ではないか。
 以上のことをわかりやすくしたのが表である。
 この表に示したように、二つの縁起の間には正保元年の権兵衛の死が厳然と存在する。権兵衛が死んだ前と後の二つの縁起と、寛文縁起の署名者の権兵衛とを矛盾なく説明することができない限り、権兵衛を2人、場合によっては3人として考えざるを得ないのである。
 これが龍爪権現の縁起をめぐる第一の謎である。