龍 爪 山 雑 記
1. 神 仏 習 合 の 背 景
神 仏 習 合
 龍爪山の事を書き始めてから、瞬く間に一年が過ぎて行った。この間いろんな都合で、仕事は思うように進まなかった。然し一年やそこらで、龍爪山の歴史や、その時代時代の姿を、書きあげる事はむずかしい。それは始めから想像されていた事であったが、やって行くうちに、果せるかな次から次へと関連の事柄が出て来た。それらを避けて通るという訳にはいかず、自分なりに調べて、又他の文献で考証できるものは考証し、確かめて行くという仕事は、本来学者ではない私の力には、多公に余るものであった。
 兎に角やって行くうちに、この仕事は単に龍爪山の沿革を調べて、それを書き綴るという事に、とどまらなくなって来た。龍爪山を書き乍ら、龍爪山をはみ出して行ったのである。
 現在の穂積神社の歴史は、ほんの短期間であり、─とはいえ、明治維新から百余年を経ているが─その前に「龍爪権現」といわれる、千年以上も続いた歴史があるのである。それはこの地方に、国が始まって以来の霊山であり、信仰の山であった。
 現在龍爪山について書かれた書物は、いくつがあるが、それらは多くは明治維新後の─正確にいえば神仏分離後の─穂積神社について書かれたものである。又それ以前の事について書いた書物も、穂積神社を見る目を、単に先へ延長したものに過ぎず、龍爪権現の記事としては、必ずしも当を得たものとは思われない。
 明治元年神仏分離令によって、神仏が分離される以前の龍爪山は、今述べた如く、大昔からの霊山として、神仏習合の山であり、修験の山であり、民俗信仰の山であった。この神仏習合の実態を抜きにして、龍爪山の歴史を語る事はむずかしい。というよりは、それは空論をあげつらうに似て、意味がないと思われる。
よう
 兎に角、龍爪山の歴史を書き始めて、まず第一に立ちはだかったのは、この山に於ける神仏習合のあり様であった。神仏習合とは一体何であるか、その本質や長い歴史、または人々とのかかわり合いなど。まずこの事の理解なくしては、仕事は前へ進まなかったのである。
 これ等の事を取り扱う学問は、主に仏教民俗学とか、仏教考古学といわれるものであろう。いずれも煩瑣な、広範囲の対称を取り扱う学問で、素人である私達には、多分に手に負いかねるものである。
 龍爪山の歴史を書くつもりが、いつの間にか、龍爪山を素材にして、私なりにこれらの学問の真似事を綴るという羽目になってしまった。
 さてこの神仏習合という事への理解が、現代人の頭の中にはないといったが、ないと云うよりは稀薄というべきであろうか。これは明治政府の二教分離、神道国教化という政策と、それを押し進める教育によって、この伝統的な習俗への認識は、現代人の頭の中から、払拭されて行ったのである。
 神は神、仏は仏という截然たる二分化の考え方は、或る意味ではまことに理解に便であり、合理的であるとさえ思われるの
かみほとけ
であるが、私達の先祖が理解した神仏とは、必ずしもそうしたものではなかった。神仏は常に習合し、混淆して、神  仏かみほとけとして人々とかかわったのである。この時代と共に流れ続けた考え方、これを抜きにして、過去の日本文化を語る事は出来ないと思う。私達は今一度、日本歴史に於ける神仏習合の実態を、とくと見直してみる必要があるのではなかろうか。
 ともあれ明治元年に始まる二教の分離政策は、必然的に廃仏毀釈を伴って、多くの貴重な文化財が、失われていった。文化財ばかりでなく、千年以上も続いた伝統的習俗も、思考も、自らの手で一朝にして破壊し去った。誠に惜しむべき出来事であったと、その関係の史書は伝えている
仏 教 伝 来
 それではここで仏教が我が国に伝来し、そしてどのように受け入れられたかという事を参考までに述べてみたい。
 欽明天皇の時代538年(上皇法王帝説)、百済の聖明王が仏像と経論を献じた。これが日本への最初の公式仏教伝来といわれて
おおおみ
おおむらじ
いる。その時大 臣の蘇我氏と、大  連の中臣氏とが、互いに賛成反対に回って争った。
 反対派の中臣氏等は、「我が国には国神があり、みだりに他国神を崇めるべきではない。」といいこれに対して賛成の蘇我稲目は、「他国で貴いとするものは、我が国でも又貴ぶべきである。」と主張した。この国神を崇めるか、または外来神を貴ぶかという対立は、保守的なものの考え方、或いは進歩的な考え方という、両者の立場の違いもあったが、結局は2つの政治勢力の、権力争いであったのである。仏教教義に対する賛否の論議ではなかった。
 仏教の日本への伝来は以外に早く、先に述べた法王帝説では538年とするが、他の文献では、この公式伝来よりも約50年早い487年に、泥土で仏像を作ったという記録もある。思うに印度で始まり、中国朝鮮と伝わった仏教は、当時朝鮮半島と密接な関係にあった日本へは、民間レベルで自然に伝わって来たものであろう。それは5世紀の後半から、6世紀の半ばへ掛けてであろうと、思われる。
 5世紀の後半から6世紀前半といえば、あの魏志倭人伝の世界から、あまり遠い年代ではない。倭入伝に出て来る世界は3世紀の事であり、大和朝廷による日本国の大体の統一は、4世紀の半ば過ぎと云われている。仏教は日本国が誕生し、1世紀をすこし過ぎた頃には、己に伝来していたのである。因みに、中国への伝来は67年とされ、朝鮮半島へ伝わったのは、372年頃からとされている。
 日本民俗学の大先達柳田国男は、日本の民俗から仏教色を取り除いて行けば、そこに日本民族固有の民俗(常民の風習)が現われると考えたと云われている。理論的にはまさにその通りであろうと思われる。しかしそこに現われて来るものは、一体どのような文化であろうか。或いは稲作を伴って渡来した南方的文化であろうか。それともアルタイ系の北方的、騎馬民族的文化であろうか。更にこの二者が複合という形に於いてであろうか。いずれにせよ日本国家が形成されて間もない時代であるから、そこに現れるものは、日本固有の民俗というよりも、むしろ先行文化的民俗といった方が、当っているように思われる。常民の風習とはそのような形であろうと思われる。この先行文化が、すぐ後からやって来た高度な文化仏教の影響を受けて、古代日本の文化を築いて行った。
 私は先にも述べた如く、民俗学者でも、歴史学者でもないので、その辺の事は断言出来ないが、仏教は非常に古くから、日本民俗形成にかかわったと思っている。むしろその主役を演じたと言ってもいいではないか
原 始 信 仰 ─大穴牟遅の世界─
 先行文化としてより多く日本文化の母体となったのは、稲作を伴った南方文化であるといわれている。この稲作を生活の手段とする民族は、弥生時代を通じて、いく波か日本へ渡来し、各地に移り住んだ。登呂遺跡もその1つであろう。尤も縄文時代の人々も、弥生時代の人々と無関係ではないと云われている。とするならば己にその昔、ルーツを同じくする人々が、日本列島に住みついていたのであろうか。
 ここで日本古来の原始宗教とはどういったものか、という事について書いてみたい。
 日本民族のもった原始宗教とは、「みくまりの神」のような自然神、或いは遠い先祖の霊といったものの崇拝であったといわれている。この自然神をおそれ、又民族の祖霊といったものを祀るのが、原始宗教であった。この神格は、現在われわれが考えるような、全智全能の神というものではなく、或る時は人々に恵みを与え、又或る時には災いをもたらすという、原始的な神であった。
 この自然神、祖霊神の祀りは、民俗的方法によって祀られて来たものであろうが、6世紀の中頃までに仏教が伝来すると、次第に仏教的方法で祀られ、仏教的な教義によって意義づけられて行くようになる。特に白鳳、天平時代により、仏教が国教化されるに伴い、益々仏教的な色合いを濃くし、神仏習合の度を深めて行ったのである。
 更に「役の行者」による修験道が成立し、深山幽谷で修業がなされるにつれて、山霊祖霊への信仰は、この修験道の中へ吸収されて行く。各霊山は修験道の行場となり、山そのものを神と崇める、神体山となって行くのである。この龍爪山も、東海に於ける一つの神体山であった。
 以上は神仏習合の歩みであるが、先ず始めに固有神道があり、それに伝来の仏教が重なって行ったとする考え方は、先に常民の風習で述べた如く、必ずしも当を得たものではない。神道もまた仏教の影響によって、時代を経て後から理論づけられ、体系づけられて行ったのである。
 扨て先程触れた祖霊信仰であるが、日本列島へ渡来した南方系の民族は、遠い先祖の霊を慰めて、高い山の上、或いは岬の先
端等に於いて、火を焚く風習があった。丁度現今の盂蘭盆の迎え火、送り火の類いである。遠い海の彼方の先祖へ送るシグナル
であるから、遥か海上遠く迄見える高山の頂、或いは岬の突端で、それは焚かれたのである。その火は「龍の灯」・「龍
灯」と云われた。大昔の龍爪山の山頂でも焚かれたのである。恐らく焼津の高草山あたりでも、そうではなかったか。「浜当
みほ
目」とは、「浜遠目」であるといわれている。岬では三保の岬がそうである。「三保」は「御火」という事であろう。
 祖霊とは文字通り祖先の霊である。いつも人々の心のよりどころであった。遠く離れて来た故郷(常世の国)の先祖の霊である。
よ く
 この祖霊は古事記の出雲神話に出てくる、「帰り来る神」であった。海上を舟に乗ってやってくる神であり、国つ神の大己貴命・少彦名命の神である。この国つ神は、北方的なイメージを持つ天孫降臨の天つ神に先だって、「葦原の中つ国」の国作りをした。「天の下つくらしし大神」であり、「オオナミチ・スクナミカミ」の作らししと万葉に歌われた神である。二神は力を合せて国土経営に力を尽された。併しその国土は、後に天つ神へ国ゆづりされ献納された。この事は歴史的には、或いは大和朝廷を築いた勢力が、古くからの地方王朝を、自己の版図の中へ編入したもの、とも見られている。
スキスキ
 この大己貴・少彦名の二神は農業神であり、「五百津鉏 鉏 なほ取らしに取らして、天の下つくらしし大穴持命」・(たく
スキ
さんの鉏をもって国づくりされた大穴持命)という事で、或いは登呂の田を耕した古代の人々にとって、身近に尊崇した先祖神であったかも知れない。更に想像を逞しくすれば、この神は弥生時代の初期に、南方部族を引きつれて、日本へ渡来した偉大な指導であったかも知れない。この英雄は久しい以前に死んだが、いつの間にか神と崇められて、常に人々の心のささえとなった。この英雄の霊は死んで故国へ帰ったが、いつも亦この地へ、子孫達の心を鼓舞する為に帰って来た。そのように信じられ
よ く
たのである。即ち弥生時代の人々の心に「帰り来る神」であったのである。
 この大己貴・少彦名二神の足跡は、単に出雲の国にとどまらない。少くとも日本の東海地方─広い意味─に広まっているのではなかろうか。西奈村誌に、「龍爪山に因める事」として、

 「龍爪山の後方双峰、俚俗一名薬師嶽と今一つは文珠ケ嶽なり。こは文徳天皇の斎衡3年12月29日
 常陸の国鹿島郡大洗磯前にて海水を煮て塩となすもの、夜半に海原を望見すれば、光輝くもの天に見へ、明日出て見れば両奇石水にありけり。高さは各一尺ばかり。神造物と見へて人間の石にはあらざりけり。
ひそか
 煮塩翁 私 に異しと思ひ、去る後の1日亦出でて見れば、20余の小石彩色尋常に非るが、向ふの二石左右にありて、さながら待り奉るが如し。因て国の守に申、其の時人に憑りて、吾は大奈母知、少比古奈命也。昔此国を造訖て東海に去往きしが、今亦民を済はんがため、更に亦帰り来ると詔いき。と之に因り駅使を立奏聞す。故に二社に祭らせ玉ひぬ。延喜式に所謂大洗磯前薬師神社、酒列磯前薬師神社是也。
くすし
 此の二神を薬師の神と申し奉るにより、此の二神の座す後峯なれば、奇麗が嶽と誰云ふとなく称へしを、何の時か字音に誤りて薬師の仏名を思ひ、一峰薬師如来ならば、亦一峰を文珠ケ嶽と呼なし、竟に近時石の小堂再建せらるるに至れり。」

かみかた
 この塩煮翁の話は「文徳実録」に出ている。この話は「神 像石」の信仰であるといわれているが、この東国に大己貴・少彦名
の二神が出現した事に変りはない。このように大己貴・少彦名二神出現の伝説は、その他各地にあると云われている。「常
かた
陸の国」はまた「常世の国」(常陸風土記)とも呼ばれていた。因みにこの神像石は、「沙門像」の岩となって現われたと記されている。
 この西奈村誌の記述は、神仏分離、排仏毀釈のほどぼりの、まだ冷めやらぬ時に書かれたものであるから、記事が所々その
おおあらいいそぎき
さかつらいそぎき
むきに書かれている。「延喜式に所謂 大 洗 磯 前 薬師神社、酒 列 磯 前 薬師神社是也」とあるは、実際には「大洗磯前
おおあらいいそぎき さかつらいそぎき
薬師菩薩神社、酒列磯前薬師菩薩神社」と、「薬師菩薩」の二字が入っているのである。「 大 洗 磯 前・酒 列 磯 前」の後
美しい
くすし
ろだから「奇麗」というのは、すこしこじつけであるが、大己貴・少彦名の二神は、治病攘炎の神ともいわれ、薬師の神でもあった。
 龍爪山頂に、薬師如来が祀られているのも、無関係ではないのである。これは習合したというよりも、一体と見做されたのであろう。
 さて「龍灯」は岬の先端で焚かれ、海の見える高い山の頂きで焚かれたといったが、祖霊神もまた海から山に登り、その頂きに鎮座したのであった。高い山の頂上から、遠い常世の国の故郷と相対したのである。大己貴・少彦名の二神も、龍爪山上の亀石の上へ鎮座ましまして、龍爪権現として、永く万民和楽、無病息災の神徳を山麓有縁の人々に垂れ給うたのである。
 因みに焼津高草山の奥の院は、西麓の三輪明神であるといわれている。三輪の神もまた、大己貴・少彦名の神であった。このように、神体山、修験山の祭神には、大己貴・少彦名の二神を祀る事が多い。というよりは深い関係にあるのである。この事は非常に意義が深いと云わねがならぬ。想像を逞しくすれば、大和朝廷による日本統一の前に、大己貴命の世界があったのではなかろうか。万葉にも歌われた「天の下つくらしし大神」とは、一体どのような大神であったのであろうか。
 ここでちょっと「亀石」について一言するならば、亀石とは帰り来った神の鎮座する処(石・岩)の事で、亀形をした石の事ではない。伊豆の亀石峠の如く、その石は山上にあるのが普通である。阿部正信の駿国雑誌には、珍石の部にいくつか亀石が記されている。珍石としての紹介であるが、その中には明らかに神の座であると思われるものが、いくつかある
二 教 分 離 思 想
 神仏の習合思想と、惟神の神国思想とは、長い間我が国の精神界を二分して来た考え方である。しかしながら、現在考えられるような神国思想は、歴史的には極く限られた一部の人々によって、信奉されて来たと思われる。尤もこの考え方は奈良時代記紀編纂の時代に、己にあったといわれるが、質が必ずしも同じではない。現代につながるものは、そのような過去の底流があったにせよ、江戸時代初期の国学の勃興と共におこり、平田篤胤の神学を経て、明治の国家神道へと進んだのである。その時から一般国民の間に定着した、と見做すべきであろう。
 それ以前の神道の系譜は、神仏習合の考えのもとに生じた。即ち天台系の山王一実神道、或いは真言密教の両部神道といっ
わたらい
たものである。この両部神道の影響を強く受けて、伊勢度 会神道が発生した。この度会神道の神典神道五部書は、密教と習合したものであるといわれている。
さらしな
 あの「更 級日記」の作者(菅原孝標の娘)は、「アマテルオンカミ」は「いづこにおわします神仏かは」、と書いている。更級日記の作者といえば、当時一級のインテリーであろう。又「大日本は神国なり」という書き出しで南朝の正統を主張して書かれている「神皇正統記」の著者北畠親房も、度会神道の影響を強く受け、神仏習合の神道観が強いと云われている。このように神道も習合色が深かったのである。
 唯一神道と云われる京都吉田神社の吉田神道は、独自の神道思想を作り上げたと云われているが、その教義の中には、仏教教義を参酌する処が多いとされている。吉田家は神祗長上と称し、江戸時代には全国の鎮守以下の宮社の大半を、自己の支配下に入れてしまった。初代の龍爪神官である瀧紀伊も、吉田家から神職免状を受けているのである。
 以上が明治に至るまでの、神仏二道の関係であるが、神仏分離という考え方は、大乗仏教の高度な理解や教義への批判という事ではなく、常に二教の、人々とのかかわり合いの部分でのみなされた。つまり政治的な理由がいつも主であったのである。
 古代日本を形成する文化は、通説として南方的農耕文化を基盤とし、その後へ北方的狩猟文化が渡来したと云われている。
 この南方的、照葉樹林的文化は、一面親仏教的文化であるという事が出来ると思う。仏教と発生の地域を同じくするというか、広い意味でのルーツを同じくすると考えられる。日本に仏教が受け入れられ、神仏が習合したのも、そのような地盤であった。神とは国つ神の事であり、神体山で大己貴命が権現として崇められたのは、そのような必然性が、そこにあったというべ
るしゃな
きであろうか。天つ神の天照大御神が、大日如来となり、盧遮那仏に擬せられたのは、時代が更に下ってからの事である。
 ここで習合の仏教について一言するならば、この仏教というのは、現代の所謂大乗仏教の事ではない。その当初は国神にま
さる霊力ありと信じられた神の教え、呪術的な密教であったのである。
 さて南方部族の後から、北方的狩猟交化を伴って日本へ渡来した人々は、或いは征服者として乗り込んで来た、とも云われている。所謂騎馬民族の征服説である。
 ともあれ北方的ツングース的文化は、南方的照葉樹林的文化とは対称的で、仏教にはあまり縁の無い文化であったと思われる。
 この二つの相反した文化の地下水脈が、長く日本民族の底流にあって、二教相剋の政治的な、或いは嗜好的な、原因となっているのではなかろうか。このように考えるのは、私の独断であろうか。
 以上長々と書いたが、龍爪権現の習合の歴史を考える上での、私の基本的な考えを述べたのである。私はこの部面で、考えている事の大部分を書き尽したが、他に二、三残した事がないでもない。しかしそれは後日を期する事にしたい。
 この文には一々参考文献を附けなかった。或いは附けた方がよかったかも知れなかったが、最初はもっと簡単に、さらりと書くつもりでいたのである。それがいつの間にか、理屈ぽくなってしまった。
 しかし大己貴命を、弥生時代の日本国王に擬したり、仏教と神道二教の対立を、南方的、北方的文化の相剋と推論したりして、或いは独断に過ぎるかも知れないと思っている。
 これ等を除いた他の歴史的記述は、殆んどの文献をそのままか、やや内わに記述したと、私は思っているのであるが。
 ただ神の歴史として、あまりにも仏教的に書かれていると、思われるかも知れないが、過去の神仏習合の深さというか、意味といったものを、ここでじっくり問い直し、考え直して戴きたいと思うのである。
 私は日本の民俗学は、源を訪ねて行けば、八、九割は仏教民俗学に、或いはその関連の民俗学になってしまうと思っている。現在諸地方に行われている恒例の神事なども、もとを正せば大半は仏事に、或いは習合の祭事という事ではなかったろうか
龍 爪 山 名 の 由 来
 最後にあまり「仏・仏」といった罪ほろぼしに、龍爪山の山名について、書いて見たいと思う。龍爪山の山名の由来については、古来からいくつかの説がある。その中には人によく知られているものもあるが、それらを掲げてみると、次の如くである。
(1)
龍爪を落して山名とする。
昔夏雲がたなびいて一龍がくだり、あやまって木の枝に爪を落した。野叟がそれを拾ってから、この山を龍爪山と名づけた。
じうそう
(2)
時雨匝山という事。
めぐ
時雨がいつも山の嶺を匝って降っているので、そのように呼ばれた。又は微雨峰、慈雨峰などとも云われている。
りゆうそう
(4)
瘤 双(山という事。)
山容から来た名称である。こぶが2つある山(山頂が2つ)という意味である。
(3)
龍灯山という事。
先に触れた如く、「龍灯」とは遥か遠くの故国に向って焚く火の事である。これは祖先の霊を祀る為とも、航海の安全を願う為とも云われている。「龍の火」とも云った。「リュートー」が「リューソー」になった。

 以上の4つである。(1)、(2)の説は昔からよく言われている所である。徳川時代の駿河関係の地誌には、殆んど載せられている。そして二者とも、「日本武命が東征の折、草薙のあたりで休まれて居ると」という、伝説が附加されている。
 さて(1)の説は古伝説としては面白いが、現実性に乏しいと思う。龍が下ったというのは、夏に龍爪山を黒雲が覆って、雷鳴がとどろき、或いは落雷した事などの、神秘的表現であると思われる。落雷によって裂けた生木などを、爪の跡といっのてあろうか。  しかしながらこの気象現象から龍と爪とを取り出して、「リューソー」と音読し、山名としたとするのは、いかなるものであろうか。どうも必然性に欠けると思われる。始めから「リューソー」という音(名称)があって、後からこの話を附会したものと私は見る。
めぐ
 (2)の時雨匝というのは、常に時雨が峰を匝って降っているということで、「ジウソー」が「リューソー」といわれるようになった、というのである。これは龍爪山の一名を「時雨ヶ嶽」というので、しぐれ勝ちな山の様子を、よく現わしているという事が出来る。龍爪山がしぐれると、間もなく里も街もしぐれて来る。
 しかしこの「ジウソー」がどうして「リューソー」になったのか、これまた転訛の必然性が見当らない。わざわざ「リューソー」としなくても、「時雨嶽」とか「時雨松山」などで充分足りるのである。
 これは同類の言葉、時雨霜とか、微雨峰、慈雨峰なども、同じようなことが言える。やはり(1)と同じく、「リューソー」という音が始めにあって、それに附会したものであろう。
龍爪山古図(駿河志科)
龍爪山古図(駿河志科)
 (3)の瘤双山というのは、山の形状から云ったものである。二瘤山という事であるが、音はそのまま「リューソーザン」となる。この説も徳川中期頃からの説であろうと思われるが、ごく一部の人によって説えられて来た。
 この説も当っていないと私は思う。何故なら大昔からの霊山に、その山に誇を持つ地元の人々が、二瘤山などという山名を附けるであろうか。もっと素晴らしい名をつけるに相違ない。それに二瘤に見えるのは、龍爪南麓もずっと東から見た場合である。静岡市の中心あたりからはむしろ三峰に見えるし、安倍方面からは単なる一塊の大山としか見えない。それに瘤双を、リューソーなどと、わざわざ音で呼ぶことも不自然である。やはり始めから「リューソー」の音があって、後から色々推量して字を当ててみたものであろう。
 (4)について、私は龍爪山の山名の起りは、この「龍の火」から来る「龍灯山」であろうと思う。太古の祖霊の座す山として、年に何度かその聖なる火は炎々と燃され、その真火な炎は、山麓のはるか遠方からも、或いは遠い海の彼方からも、よく見えたに相違ない。「リュートー」がいつか「リューソー」になって行った。
 「リュートー山」という名の山もないわけではない。周智郡春野町と、磐田郡佐久間町の境に聳える龍頭山(1,352米)がそれである。「晴れた日には頂上からの眺めはすばらしく、富士山をはじめ南アルプスの山々や、遠州灘も一望できる。」と、角川地名大辞典に記されている。この「龍頭山」も大昔は「龍灯山」であったのではなかろうか。
 吉田東伍著「大日本地名辞書」には「龍爪山とは、山神龍蔵権現を祀っていることによる。」と記載されている。しかしこの説には賛同しがたい。何故ならこの「龍蔵権現」なる言葉は、徳川時代の駿河関係の地誌、例えば駿河国志にも、駿河記にも、駿河雑誌にも、又その他の古書には、どこにも見当らない。或いは龍爪権現の音の書き誤りではなかろうか。又は龍爪蔵王権現の意味であろうか。
 龍蔵権現なる言葉は、織田得能の仏教大辞典にも、又中村元の仏教語大辞典等を見ても、見出す事は出来ない。只一つ、その昔、みちのくに黄金花咲くと歌われた、金華山の黄金山神社の本尊が、龍蔵権現とも、金華山弁財天とも呼ばれていた、と記されている。
 以上で龍爪山の山名の由来の考察を終りとするが、更に加えて、隣国の中国に、龍爪山という山名と地名が一つずつある事も附記したい。