4. 古 伝 説
 扨て龍爪山は古くからの信仰の山であると、先に述べたが、それを記した文献等は、今のところ見つかってはいない。しかしここでそれを物語る、2つの昔からの伝説を取りあげる事にする。それは「龍爪山般若平の由来」と、「行翁の物語り」である。この2つの物語りは、共に古くから伝えられている伝説であるが、龍爪山が昔からの霊山でなければ、伝わり得ない物語りであろう。
 駿国雑誌の巻24上に、大般若の奇怪として、

 「里人云。庵原郡龍爪山に、般若沙と云所有り。是推古天皇28年(620)4月、大般若経天より降りし事あり、故に此名有り。或云。推古天皇18年、聖徳太子令を伝へ、小野妹子を隋国に遣り、前生に持する処の法華経を求め給ふ。此時衡山寺に、天笠将来の大般若経有り、妹子即彼寺ニ至り、乞得て皈朝し、太子に奉る。太子深く尊み給ふの余り、帝都近きは失火の災計り難し、しかじ遠境に置むにはとて、此山に納め給ひしを、いつの頃よりか龍爪山の南麓、瀬名村の戸倉明神の社にこめたり。此経は黄紙に梵字に書り、朱塗足付の箱に入、二箱有り。内に守 護神と号て、一尺計りの赤き蛇
はこ
一蟠れり、二筥とも然り。経筥は雨に濡をも厭ず、社壇の外に居ゑたりしが、近頃は社内に納て、見る者なし。此神社は、旧くよりいますにや、今川家再建の棟札、今に存す。云々。仏経の降る事、赤蛇の経を守護する事、前代未聞の奇怪と云べし。」

 この伝承は、同工異曲の物語りとして流布している。
 一本に曰く、(西奈村誌、口碑、伝説の項所載)

 「抑々此龍爪山の由来を尋ね承るに、人皇第7代孝霊天皇の御宇5年6月、天地震動して富士山顕れ、近江の国に湖水湧き出ずるとかや。此の龍爪山も同年同月顕れ。遠江の国橋本の北にあたり湖水湧き出ずと、此の旨帝都に注進しなければ、其頃は未だ国号も定かならざりけるにや、近江湖水湧ける故に、帝都に近き江なりとて国号とす。また東国より湖水湧き出づると奏しければ、是は都に遠き江なりとて、遠江の国と名付給ひけるとかや。其の後人皇24代推古天皇28年夏4月、此の龍爪山を黒雲の巻くこと37日、異香二、三里が外に薫じけるが、大般若経600巻天より降りたりとなり。
からおと
梵字般若経也。其の600の内200巻は尽未来際迄流布の為とて、般若嶽と申所の地を三丈程掘って、石の唐 櫃に入れて納奉りけりとかや。又200巻は龍宮に納めたりとも申、又乱世の頃他国へ盗み取られたとも申也。相残るところの御経200巻は、今龍爪山の南の麓瀬名と云ふ在所に、利倉大明神と申森有り。其の森に納め置きたり。云々。」

 と、は下は駿国雑誌と同じような記事になっている。この文の始めに、孝霊天皇の5年6月に、天地震動して富士山が現れ、その反対に窪んで琵琶湖が出来たという説話は、ずっと昔から言われているところである。龍爪山も同月同日同じように、浜名湖と共に出現したと書かれている。勿論地理学的にはそのような事はあり得ないで、浜名湖の場合は、浜名湖東部の三方原台地の、東が隆起西が下降するという運動によって、生じたものであると言われている。
 それはさて措き、このような説話は、東海の霊山として、龍爪山が己に昔から知られて居った、ということの証拠にはならないだろうか。
 更に推古天皇28年といえば、西暦620年である。その年龍爪山の般若沙という所へ、どのようにして大般若経600巻が舞い降りたのか、すこし現実離れがしていて、そのままでは理解しがたいが、当時そのような事の出来る立場の人が、龍爪山上へ経塚を作り納経した話として見るならば、必ずしも荒唐無稽として、退けることは出来ないと思う。その文を見ても、「200巻は尽未来際迄流布の為とて、般若嶽と申所の地を三丈程掘って、石の唐櫃に入れて納奉りけりとかや」と、経塚作製を思わせる文となっている。
 兎に角以上の事から類推しても、龍爪山の霊山としての歴史の古さを思わせる。  それでは次に行翁の物語りを見る事にしよう。桑原藤泰著「駿河記」の巻6、安倍郡巻之6に、
ばかり
 「行翁山並瀧」(龍爪山の内なり。此山中虎杖のながさ二丈 許 ふとさ六寸回りのものあり。又山つつじ、藤、芍薬、其他の草花多く生ずる地也。行翁爆布は幅4間許。
ばかり
せんじゅせんがん
 本村(牛妻)より登十八町 許 、洞窟あり。村老伝云、むかし行翁といへる異人此洞にありて、千手千眼の神呪を唱ること久し。土人是を呼て行翁─或行王─と称しける。貞観17年(875)夏の頃、槇部といふ所の民、此翁に帰依し、時々参謁すること師弟の如し。其後翁鉄の足駄を携へ、鉄の杖を老樹の木に棄置、此地を立去らんとする時、槇部其袂にすがり名残を惜みしかば、翁則筆紙を召して、名号を書てあたへ、去る所を知らずと云々。
 此杖松野村の民某盗取て鍬にうちたるに、某即死す。今下駄は存在す。一丸足駄一足一本歯なり。─杖は天明の頃、麓の福寿院の僧新に打せてこの所に寄附せしなり。洞の中に彼翁が書し名号を写して石に彫付たり。今傍に一小堂建立す。洞は自然の窟にて、穴の口二間許、深二十間許もあるべし。
あんずる
えい
 案 に此行翁は行叡居士にやあらん。元享釈書曰、京清水寺もまだ精舎とならざる以前、行叡といへる異人、二百年の年月を経て、千手千眼の神呪を持し、報恩沙弥の来るを待得て、我は東州の行あり。吾に替って此に棲めと、東に向て去といふ。若くはこの地に来りて、この洞窟にありけるにや、知るべからず。」

 この行翁伝説も同工異曲、諸本に伝わっている。貞観18年といえば古い年代で、弘法大師空海が高野山を開いたのが、嵯峨天皇弘仁7年(816)の事である。それから数えて約60年の後という事になる。
 この行翁の事跡を、そのまま信ずるか否かは別として、更に1本(西奈村誌、口碑、伝説の項)を見ると

 「清和天皇貞観17年夏の頃、行翁曰く、此の山に栖むこと既に百有余年時節を待て、此の龍爪山を開き大伽藍を建立し、仏法流布の大道場となし、衆生を済度せんと思へども、時未だ至らず云々。
 ……吾尚東行時節を待って、檀那をもうけ、大伽藍を建立し、一切衆生と結縁すべしと思也。惜哉、此の龍爪山は本
いかで
朝無双の霊山也。 争 か我此の山を捨つるを得んや、爾来永々の間又此の山に立帰り、仏法流布の霊地となし、衆生済度
しるし
くつ
をなすべし。其の 験 なりと御足にはき給ひける鉄の履、並に御手に携へける鉄の御杖を、老樹の本に捨置き御立ありける処を、槇部御杖につがり、御名残り惜しきこと哉。云々」

 以下、駿河記の述べる処と同一なので略す。この文は、行叡居士が、龍爪山に大伽藍を建立しようと思うのだが、まだその因縁が熟さない。因って東国へ行き、東国が必ず将来国の都になるであろうから、その時節を待って、檀那をもうけそこへ大伽藍を建立して、大くの人と結縁したいと思うのである。然しこの龍爪山は日本国無双の霊山であるから、永い間には必ず帰って来て、仏法流布の霊地としたい。といっているのである。
 しかしこの文は、江戸が日本の国都になる事を予見していたりして、徳川期以降の文である事は間違いない。
 しかし行翁が果して元享釈書にいう行叡居士であるかどうか、多分に疑わしい処であるが、行翁山が、龍爪山修験道の一環と
して、古くからの行場であった事には間違いない。行翁とは、行者の翁という事であろう。山岳宗教修験道は役行者に始まると
云われているが、日本古来の民俗宗教を受け継いで、密教々学の流れを汲む、神仏習合一体の宗教である。大日如来を主尊と仰
もくじき
ぎ、その化身仏たる不動尊を信仰して、主に深山幽谷で修行し、木 食等の行を行う実践的な宗教である。即身成仏を説いている。
 その行場には石窟が多く、この行翁の窟もまぎれもなくその行場である。石窟寺院などとも云われている。龍爪山をとりまく行場は外にもあり、行翁山の峯一つ越えた「道白平」も、そうである。道白平は天文年間(1532〜55)道白和尚が修業したところとして有名であるが、道白和尚は曹洞宗の人であるが、当時は禅僧であっても、修験の修業をする人も多かったと、物の本にも記されている。
 道白平の石窟も、訪ねる人を慓然たらしむる行場である。
 以上で行翁の窟が、昔からの修験の行場であった事の説明を終るが、今1つ注目すべき事がある。
 それは行翁伝説の中にある、
 「龍爪山に大倣藍を建立し、仏法流布の霊地としたい」という願いである。行翁は人間というよりは神に近い、神通力を持った異人である。これは霊地開創に登場する一連の縁起の話として、見る事が出来ると思う。
 例えば、遠州奥山の「半僧坊」、秋葉山の「三尺坊」、又相州小田原の「道了尊」等、同じ類型として見る事が出来る。又多分に久能山を開いた「のふかい法師」も、そのような異入ではなかったかと思われる。のふかい法師は聖徳太子の使いとして、久能山を開いたと言われているが、(万記祿)、この話は巷間から消えて己に久しい。
 龍爪山も条件さえ調えば、行翁の行願のとおり、立派な伽藍が空に摩して建立されていたかも知れない。しかし機縁未だ至らずであったのである。
 以上で龍爪山の霊山としての、古い歴史の証拠としたいのであるが、いずれにしても戦国末期の中断と空白が、それ以前の歴史の解明を拒んでいるのである。