T 龍爪山開創のこと(―樽の権兵衛の話―)
開 創 説 話
 天正10年、甲斐の武田氏が天目山に滅び、豊臣、徳川の天下分け目の関ヶ原の合戦も、己に9年前に終った慶長14年の正月、武田の落人の1人、中河内の奥の樽村の住人権兵衛は、いつもの猟師仲間、伊佐布の勇啓の子兵右衛門、吉原障子坂の源八の子定七と語り合い、大勢の勢子を連れて、黒川山の山上(龍爪平)へ猟に出掛けた。生憎その日は全くの不猟で、致し方なく猟を中止して引き揚げようとした時、頭も背も尾も真白な、見事な鹿を先頭に、16頭もの鹿の群が現れた。得たりと権兵衛自慢の鉄砲をもって、その悉くを撃ちとめてしまったのである。然しその喜びも束の間、権兵衛はその夜にわかに発病してうわ言を言い、本心を失ってしまった。
 患って3年過ぎ、その間家族の者は日毎夜毎にコリを取り、日本全国の神祗に祈って、権兵衛の病気快癒を、一心に祈願したのである。
 或る夜のこと、夢枕に1人の白髪、白鬚の老人が、右手に経巻をささげ、左手に錫杖をもって現れ、権兵衛に向かい「われは龍爪権現である。以前お前が撃った白鹿は、吾が使いの者である。若しお前が龍爪山上に社を立て、吾を祀るならば、その病気を治してやろう。」と言ったかと思うと、忽ち夢が覚めた。そこで権兵衛は早速龍爪山上に社を建て、龍爪権現をお祀りすると、たちどころに病気は平癒して、元の体に立ち戻った。因って彼は家族を引き連れて山上へ登り、龍爪権現祠官となって、名も瀧紀伊と改めた。
 以上が「樽の権兵衛」に始まる、龍爪山開創の説話である。(史話と伝説―飯塚伝太郎著―など)
 この説話は、龍爪山開創の物語として、現在広く知られている処である。誠に神山開創に相応しい、霊験あらたかな物語である。誰もがこの話を聞いて、ずっと権現の神徳をあがめて来た。それはまた将来も変りなく、龍爪信仰の中に生き続けるものと思われる。けれどもこれはあくまで説話の世界の事であって、実際の歴史的事実とは、必ずしも一致しない。実際の歴史的事実は、又自ずから別個のものである、と言わねばならぬ。
 併しながら、その歴史的事実と云うものの探索も、又容易ではないと思われる。けれども少しでもそれに近づけて行きたいというのが、本稿の願いである。
 それではここで、現在の龍爪山穂積神社の神職である、静岡市平山在住の瀧家に伝わる文書を見る事にしよう。
 「龍爪山御本社造営之覚帳」に、―これは樽の権兵衛から数えて七代目と目される、瀧長門正正秀の記したもので、明治の初年に書かれたものである。恐らく明治元年の明治政府による「神仏判然令」の出た後に、その筋へ提出すべき文書の覚えとして、書かれたものであろう。正秀は明治15年に没している。行年66歳であった。
(之神)
 「抑も龍爪山穂 積権現の記録」として、―傍の( )の中の文字は、書き改められている元の字である。後出のものも同じ。

(武田)
(武田)
 「駿州庵原郡樽の上村、多 起甚右衛門二男瀧 氏権兵衛、52歳の時、慶長14年正月龍爪山上に登り、右権現おし
(患)
みの鹿、鉄砲にて打ち留め、夫より右権兵衛俄に乱心致し、3年程の間相 煩 ふ事我性にあらず、時に両親悲しみ、
ずつ
毎日百度宛のコリを取り、当人ぜひ本心にと、日本諸神へ大願すれば、右権兵衛本心に立ち戻り、同17年龍爪山上
おうなむら
すくなひこな
へ移り住み、当社権現の祠官となり、宮柱を立て、毎年3月17日に祭礼奉る。祭神大 己 貴命、相神に少 彦 名命二柱を勧請。天下泰平、国家安穏と願ふ処。右権兵衛儀、正保元年申の9月16日死。地主神と唱へ申し候。云々。」

続いて、
(権之丞)
1、権兵衛伜、半之丞、勘之丞、半兵衛、六 平
   〆男子四人
    女子二人
1、半之丞   吉原村に住む。
1、勘之丞   平山村に住む。
1、半兵衛   樽村に住む。
(権之丞)
1、六 平   清地村に住む。

 このように樽の権兵衛開創のいわれと、子息4人がそれぞれ麓の四ケ村へ、分れ住んだ事を記している。更に「慶長17年に宮柱太敷く立て」云々、という記事の後に、凡そ30数年目毎に、社殿を建て替えて来た事等が、明治6年まで記されている。これは先に述べた如く、神仏判然令の「其神社之由緒委細ニ書付、早々申シ出ヅ可ク候事」という、太政官達しによって、政府へ提出すべく、書き纏められたものと推測される。従ってこの文書には、神社の由緒を飾り、社殿の建立等の記録についても、多少粉飾して書き改められた、と思われる跡が認められる。
 さてこの文書に書かれている、樽の権兵衛の開創のいわれであるが、これは冒頭に掲げた物語と同一で、その原形であろう。然しこの記録には、権兵衛が鹿を撃って病気になり、諸神へ大願して治癒したと記されているが、白髪、白髪の老人による夢の中のお告げによって、龍爪権現をお祀りしたという、縁起の話はない。
 これは一体どういう事かと言うに、この時点では、説話の後半の部分は、まだ出来ていなかった。つまり龍爪開創説話は、一時に成ったものでなく、時を追って潤色され、完成されて行ったものである事を示している。現在のような形になったのは、尚暫く後の事であろう。
 勿論原形としては、樽の権兵衛と目される龍爪神官の祖が、落人として黒川山(龍爪山)中に住み着き、日毎鉄砲をもって猟をしていたという事は、当然考えられる。そのような状態にあって、龍爪権現の祠官となった経過は、極く自然のなり行きであった。
 このような権兵衛の原像がもとになって、その上に修験山開創の説話が、かぶさって行った。日本国中の修験山には、類型の説話が各地にあり、それらから多大の影響を受けて、出来上ったのである。龍爪説話もまたその中の1つと云う事ができる。
 それでは先に進んで、やはり瀧家所蔵の文書を見よう。
 これは大分時代を遡り、元禄2年「龍爪山秣場」争論(訴訟)の折に、幕府見分の役人の求めによって、提出された口上書である。この秣場争論は、地元3ケ村(平山、長尾、北沼上)と、入郷(龍爪山秣場へ入会権を持つ村々のこと)27ケ村(瀬名、瀬名川をはじめ近郷の村々、他に12の抜ケ村―この事件に関らない村―があった。)との間の、大争論であった。これはその提出されたものの控えである。

 「龍爪山権現社地の儀御尋ね御座候処、左に申し上げ奉り候。黒川山、龍爪山の境岑通りと心得、本社拝殿並びに社人の家、両山中央に相立候。尤も年数の儀は、証拠書物等も御座無く候へ共、慶長17年の頃、庵原郡樽の上村権兵衛と申す者、龍爪山へ登り、亀石の上へ小宮を造り、勧請仕り、即ち住居いたし候て、祭礼相務め来り候由、申し伝へに候。且、拙者共家の儀も、追々造り候由に御座候へ共、年数の儀は、相知れ申さず候。云々。」
元禄2年9月2日
龍爪山社人
内 記
六之丞
勘之丞
権之丞
広瀬猶右衛門殿
奥田儀右衛門殿
 龍爪山社人の内記は、筆頭社人であり、吉原へ下った瀧家の祖である。序でながら、六之丞は清地へ、勘之丞は平山へ、権之丞は樽村へと、夫々住み着いている。尚勘之丞は「龍爪山御本社造営之覚帳」に出てくる、勘之丞と同一人物であろうと思われる。
 又広瀬猶右衛門、奥田儀右衛門は、幕府評定所検使、野田三郎左衛門、小長谷勘左衛門のそれぞれの手代として、実地に山中を見分した役人である。  龍爪山秣場は、長尾、瀬名村境から、尾根をずっと北上し、龍爪神社に至り、更に薬師岳、文珠岳へ登り、それから南下して、北招上、南沼上境の上坂峠へ、文珠、薬師の龍爪山主峰を中心に、左右に南下する尾根に囲まれた、広範な山地に拡がっていた。それは現在、静清の地域から望まれる龍爪山地の、端の部分を除いた、殆んど全域に点在していた。序でながら、この大争論は、地元3ケ村の完全な勝訴に終り、裁許文(判決文)は次のように結ばれている。

 「前略、今度入郷27ケ村の者、札山を運上山と申し掠め、理不尽に山もと古林の木、七百本余伐り採り、依って不届と為す。27ケ村の庄屋壱人ずつ牢舎せしむ。過料として、高百石に壱貫文の積、今此を出し畢んぬ。仍って後証の為、絵図裏書きせしめ、山元3ケ村と、入郷27ケ村へ、之を下し置く者也。
  元禄2年己巳12月22日

 話が大分横道へ外れたが、この裁許文の中に、先の「龍爪山社人口上書」に対応する箇処がある。それを掲げると、

 「1、龍爪権現の宮、弐拾ケ年以前より建て置き、杉檜の林仕立て、社人等居住せしむる由、入郷の者共之を申すと雖も、黒川山、龍爪山の境、峯通りにこれ有りて、社人の家も両山跨ぎ、古木繁り新地と相見えざる条、其の儘にこれをさし置くべし。但し諸沢にこれ有る八畝歩の木立は、社人内記支配せしむると雖も、札山と相見ゆる間、之を伐り荒すべき事。」

 この龍爪山争論に於ける口上書と、裁許文は、龍爪山開初を考える上で、貴重な資料である。勿論ここで云う開初とは、樽の権兵衛といわれる人物によって、始められた時の事であって、元来の龍爪山信仰は、民俗信仰としてずっと古くからあり、或いは室町時代、更には平安時代以上にさえ、遡るものと思われる。
 さてこの口上書によれば、龍爪山開初の事が、大変曖昧になっている。「年数の儀は、証拠書物等は御座無く候へ共、慶長17年の頃、樽の上村権兵衛と申す者、龍爪山へ登り、亀石の上へ小宮を作り、勧請、即ち居住いたし候て、祭礼相務め来り候由、申し伝へに候。」「申し伝へに候」とは、いかにも曖昧である。
 口上書に名を連ねた勘之丞は、龍爪山御本社造営之覚帳では、権兵衛の二男になっている。龍爪山開初の事は、やはり当時の社人達にも、己に曖昧であったのであろうか。或いはまた、その辺の事をぼかして置かねばならぬ、何等かの理由があったのであろうか。
 元禄2年といえば、権兵衛が山上へ登った慶長17年から、数えて77年目、その没年正保元年から数えて45年目、必ずしも遠い年代ではないと、思うのであるが。
 裁許文中の、「龍爪権現の宮、弐拾ケ年以前より建て置き……社人等居住せしむ」とは、元禄2年より20年前(数えにて)、即ち寛文10年に、権現宮を建てた、という意味に取れると思うが、どうであろうか。そのように、「入郷の者共」(近隣の村人達)が、見分の役人に申し立てたわけで、その事柄の真実性は疑い得ない。又「社人等を居住せしむ」とは、強い表現であるが、これは己に近隣の村人達が氏子となり、信徒となって、或る程度の経済的な負担をし、便宜をはかっていたものであろう。
 この事は口上書にも見えていて、「御宮、鳥居拝殿等修覆の儀は、私共方にて仕り候。尤も入用の諸色、人足等、近村役人へ相頼み候へば、相応に寄進致し呉れ候由、申し伝へに候。尤も深山の小社に御座候へば、多分の入用等、相掛り申さず候と、申し伝へに御座候。」と言っている。
 以上の所をも一度補説するならば、先ず裁許文中の「権現の宮20ケ年以前より建て置き」ということは、現代風な意味にとれば、或いは20年以上前、耶ち最低を20年に置いて、それ以前という意味に取れない事もないが、当時の用法としては、はっきり年数を限った言い方と取る方が正しい。そのように使用されていたのである。更に先出の「御本社造営之覚帳」にも、寛文10年造営と記されている。
龍爪平(旧社務所)
龍爪平(旧社務所)昇格願添付写真より
 それではそれ以前には、全く社殿等はなかったかと云うに、社殿というような立派なものは、勿論なかったが、社人等の居住するための家(小屋)や、ごく小さな権現の社―社人等の手造りか、それに近いもの―があった。その事はやはり、造営の覚帳に、12、3年毎の権現社立て替えの記録があり、それによって小社の存在を知る事が出来る。尚12、3年目毎の立て替えという事は、その建物が、粗末な耐久力のないものであったという事が出来よう。
 そういったものであっても、その立て替えや修復には、時に応じて里人の協力を仰いだのである。この事は口上書でも述べている。近郷の入々には、ずっと権現に対する信仰があり、信徒意識があったのである。
 次に、やはり裁許文中の「社人等居住せしむ」という箇所であるが、先に述べた如く、これは誠に強い表現である。この言葉からは、入郷の人々(近郷の村人達)が、むしろ権現社の主人公の感じさえする。「居住させた」という表現は、永年そこに住んでいて、己に居住権のある人々に対する言葉というよりも、最近そこへやって来た人々に対して、なされた言葉という感を受けるのである。口上書と裁許文とは、微妙な食い違いがあり、社人達は、権現祭祀を既成の事実として、印象づけようとしているかに見える。
 しかし裁許文は幕府評定所(現在でいえば最高裁)の公文書であって、その信憑性は疑い得ない。私はここに、徳川初期に始まったこの龍爪権現の、開創期の姿を見る、1つの鍵があると思うのである。
 さて要するに、龍爪社人の祖が、亀石の上に小宮を建て住みついてから、2、3度の造立修覆があったと思われるが、この寛文10年に、これまでよりは大きな宮社を、近郷の人々の助力によって、作ったという事である。併しまだほんの小社であった。
 因みにこの龍爪山秣場争論は、間歇的に後何回か起り、明和3年、更には天保13年発生の争論は、弘化2、3年と、幕府評定所再三の見分となる、大争論となった。そしてようやく、明治の新時代になって終焉している。
 以上平山在住の現在の神官、瀧家関係の資料と、龍爪山秣場争論裁許文とを中心に、龍爪山開創の事を考えてみたのであるが、ここで角度を替えて、江戸時代の駿府在住の、或いは在職した人々の手になる著作によって、外から龍爪権現開創のことを見てみる事にしよう。
 先ず始めに桑原黙斎の「駿河記」(文化6年刊)に、

 「(龍爪山権現社)垢離取り川より坂路三十六町登り、古社金山権現を以って奥の院となす。地主神なり。祠官 瀧紀伊。
 龍爪権現は延享の頃、小川の奥樽村に権兵衛といふ樵夫、もの狂ひの如くみずから口走りて云ふ。吾は是龍爪権現なり。願ひあらば吾に告げよと云ひて、日々浜に出て髪を洗ひ、身を清む。病者路頭に待ち受けて、之を祈るに大いに験あり。夫より益々山家に行はれて、多くの財宝を得たる故に、社を山上に遷し立つ。其の身も吉田家の許状を受けて神職となり、瀧紀伊と号す。是れ龍爪神職のはじめなり。毎歳3月17日を以って祭とす。此の日西東の山家より、鉄砲数百挺持ち出で、打ち鳴らすを以って例祀とす。」

 ここで急に奥の樽村の権兵衛に代って、「樽村の樵夫権兵衛」が登場する。この樵夫権兵衛の話は、江戸時代のどの著作にも、共通して載せられている。これは江戸中期以降の、駿府在住の人々に、ある程度知られていた話と思われる。河野通泰の「駿河国新風土記」(文政13年刊)にも、安倍正信の浩瀚な「駿国雑誌」(文政14年刊)にも、又新宮高平の「駿河志料」(文久元年刊)にも載せら れている。煩をいとわず、この駿河志料の龍爪権現社の項を、掲げてみよう。

 「(龍爪権現社)垢離取り川より坂路三十六町登る。旧社金山権現を以て奥の院とす。地主神なり。祭神詳ならず。祠官瀧長門。
 龍爪権現は延享の頃、小川の奥樽村に、権兵衛と云ふ樵夫ありしが、俄に発狂して云へらく、吾は是龍爪権現なり。願あらばわれに告げよと云ひて、日々浜に出て髪を洗ひ、身を清む。病者路頭に待ち受けて、これに祈るに大いに験あり。夫より益々山家に行はれ、財宝を得たる故に、社を山上に還し立てたり。権兵衛は後に国府総社神主の門人となり、吉田家の許状を受け、瀧紀伊と云ふ。毎歳3月17日を以て祭日とす。此の日東西の山家より、鉄砲数挺持出して、打ち鳴らすを以って例祀とす。」

 「駿河記」と重複する記事であるが、祠官が「瀧紀伊」から「瀧長門」になっている。これは両書の間に、著作年代に約60年の推移がある故である。
 然しこの記事の中に、注目すべき箇所が一つある。それはどこかといえば、「権兵衛は後に国府総社神主の門人となり、吉田家の許状を受け、云々。」という所である。
 「国府総社」とは「新宮」と共に、静岡浅間神社を代表する社の1つである。しかもこの「駿河志料」の著者が、「新宮」社の神官、新宮高平である事を思えば、瀧紀伊が同じ浅間社内の総社の門人となって、吉田家から許状を受けたという記事は、その事の歴史的事実を証して充分重みがある。
 この江戸時代の諸著作は、当時の龍爪権現の姿を、正確に伝えていると思われる。即ち、瀧紀伊の出現は吉田神社の神道裁許状を持った、公認龍爪神官の誕生という事である。駿河記その他の、「是龍爪神職のはじめなり」とは、この事をさして云うのである。
 それまで民俗信仰の中に、自由に羽ばたき生き続けて来た龍爪権現は、始めて吉田神道の下に位置づけられた。しかし吉田神道に統率されたといっても、なおずっと民俗信仰の山に変りなかった。瀧紀伊はその功績によって、龍爪権現の実質的な代表祠官となったのである。
 ここで私達は、むずかしい両頭論に直面する。即ち2人の樽の権兵衛、2人の瀧紀伊の存在である。1人は慶長年間の武田の落人の権兵衛、もう1人はずっと年代の下った、延享年間の樵夫権兵衛である。どちらも龍爪神官となり瀧紀伊を名のったと書かれている。両者の間に約140年の隔たりがある。単なる名前の偶然の一致ではすまされない、この両者の存在を、どのように解釈したらいいであろうか。
 勿論元様2年という年には、己に権現の社はあり、社人等も居住して祭祀を取り行っていた事は、先に見た龍爪山秣場争論の折の口上書、裁許文にも、書かれている通りである。しかし当時の権現社は、本社、拝殿といっても、極く小規模のものであった。これも先に見たとおりである。祠か、それをやや大きくした程度のものであった。
 兎に角このようにして何人かの社人に守られて、徳川時代もずっと延享の年代まで下って来た。そこへ「小川奥の樽村の樵夫権兵衛が、自ら龍爪権現と称して、病人を見て祈祷をなし、大いにしるしあり。」で、それによって財宝を得て、龍爪山上に社を建てた、という事である。それまでの小社と、うって変った社殿を作り上げた。それがどの程度のものかは不明であるが、終戦後最近まで立っていた、穂積神社の規模と結構を持ったもの、或いはそれに近いものと想像される。徳川中期以降、龍爪権現殷賑の基を築いたのは、実にこの人瀧紀伊に外ならない。
 以上で、樽の権兵衛に始まる龍爪権現の歴史的沿革は、おぼろげながら浮かび上って来たように思う。  ここで、平山瀧家以外の資料を紹介したい。その一つは清水市布沢在住の瀧文雄家に伝わる記録である。布沢瀧家は、同市吉原瀧家の分家であると言われている。吉原瀧家は、樽の権兵衛の長男の家系と目される家柄で、例の口上書の「内記」の子孫であり、長く龍爪神官の筆頭であった。その記されたものを見ると、

 「先祖、武田の従臣にして、武田氏滅亡の後を、此地に落ち着き、永年龍爪山に住居し、其の後宝暦初年に当地(布沢)に来たる。
 瀧喜平治祖先にして、龍爪山権現神職と農業に務め、其の後六代にして、神官職を当区望月多盛に一任致し、農業に従事するもの也。云々」。

 その後に、代々の氏名、法名、没年等を記している。更に1つ旧小川樽村(現清水市中河内)望月利市家に伝わる系図について、見てみることにしよう。この望月家は、樽の権兵衛の直流と云われる家系であるが、先出の御本社造営之覚帳では、権兵衛の3男、半兵衛の家系と記されている。
その龍爪山開山当時の人々をあげると、

望月甚右衛門 義豊
 元亀3年10月遠州三方原へ出陣。
 天正3年5月30日、長篠へ出陣。
 天正の役武田家滅亡に付、甲州引払い、文禄3年駿州へ移住、中河内樽上也。
権兵衛 豊正
慶長2年駿河国龍爪山へ移住す。織田氏の所誅厳にして山住みをなし、身をかくす。龍爪山神祠を祭る。云々。
正保元年9月16日死亡。
望月権之丞 豊広
寛文6年4月20日龍爪山に於いて死亡。是迄二代龍爪山に住居。
望月家に祀る龍爪社
樽 望月家に祀る龍爪社
 以上は望月系図ごく一部の抄出であるが、先程の布沢瀧家の記録といい、この系図といい武田敗軍の落武者達が、龍爪権現の開創に関った事は、間違いのない事実である。
 尚、平山瀧家文書には、望月甚右衛門・望月権兵衛は瀧甚右衛門・瀧権兵衛となっている。
 さて、古老の話によれば、清水から甲斐に至る所謂塩の道、その中継地たる樽峠を守備して居た武田方の部将を、「樽の権兵衛」と呼んでいたとも伝えている。これは一種の通称であって、固有名詞ではない。
 筆者はかつて次の如く考えた事もあった。即ち「樽の権兵衛」をそのような抽象的な名称と考え、「樽村からやって来た、龍爪山の開創者」と解したのである。「樽」は「垂る」で、「瀧」と相通ずる処から─実際に樽峠は水が豊富で、小瀧が多い─龍爪神官瀧家の祖を、そのような半人、半神の像にぼかし、神格化したのではなかろうかと。権兵衛は龍爪山の地主神でもあるのである。その方が世をはばかる落人としても都合がよいではないか。しかし実際には、樽の権兵衛は、望月系図にある如く、れっきとした実在の部将であったのである。
 ここで樽峠について、少しふれて置きたい。樽峠は今迄見たとおり、龍爪発祥の地といってもいいほど、深い関係にあるのである。
 清水市発行の「ふるさと物語」には、次の如く出ている。

 「中河内と山梨県との境にある樽峠に通ずる山道は、甲州の武田信玄が駿河侵略のために造った、軍用道路だと言われています。また信玄は、ここに見張りの間者をおき、出兵に備えて、大がまを用意していたとも伝えられています。
 その昔、山で4方を囲まれた両河内への主な交通路は、甲州からこの樽峠を越えてくる山道と、やや遅れて開発された西河内の徳間峠へ通ずる道でした。この辺りに住む人々も、文化も、その多くは甲州から入って来たことでしょう。
 また、古老の話によると、明治の始めまで、この峠の頂に無人の小屋があって、そこでは、いっのころからか、両河内の人たちが運ぶ塩や魚と、甲州の人々が背負ってくるそばなどとの”物々交換”が行なわれていたそうです。」

 として、その昔の要衝の地、樽峠が紹介されている。
 尚この道は更に「40坂」といわれ、清水市吉原へと続いている。その道は巧妙に作られた武田の軍用道路で、夏でさえ汗をかくこともなく、山を越える事が出来る、といわれている。
 この布沢から吉原への40坂は、龍爪山の東麓というよりも、その山系の中へすっぽり入っている。
 ともあれ延享から以後は、先に述べた通りである。しかしながら、あのように脚光をあびて出現した、龍爪神官瀧紀伊は、その後の消息を、歴史の長い時の流れの中に、すっかり埋没してしまった。
 明治7年には、今までの6名(始め4名、後に6名になった)の龍爪神官は、すべて辞任し─神官とはいえ明治以前は、神仏習合の別当色が濃かったのである。明治政府はこれらの神官を罷免し、一定の期間を置いて再任したケースも多い。平山瀧家が後日復職している。
 同8年には、名称も龍爪権現から穂積神社と改称され、郷社に列せられた。祠官も国学者の流れを汲む、高田宣和が任命された。以上は「庵原郡誌」の云うところであるが、実際にはこれ等の事は、2、3年早く行われているものの如くである。
 勿論明治政府の神仏分離政策によって、進められたのであるが、神仏分離政策は、各地に見られる如く、必然的に排仏毀釈に発展した。龍爪権現も例外ではなかった。山中幾多の習合的性格の尊像や、什物什具といったものは、すべて取り除かれて行ったのである。
 かくて長い間、山麓一帯、近在近郷の人々に、神徳を垂れ給うた龍爪権現は、その迹を隠くし、新しく穂積神社として生れ変って行ったのである。
 後は明治、大正、昭和と共に歩む事になる。そして次第に戦争と結びついた、いかめしい軍神としての神影を強めて行く。そのかみ天狗を使役し、鉄砲を打ち鳴らし乍ら、庶民に親しまれ、仰がれていた権現の姿は、急速に遠のいて行ったのである。